今晩は、所沢市田中則行です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースにて毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡、今週は「『サザン・ウインド』から新たなスタイルを確立 最先端を求めスタッフと乖離」と題して昭和59年春リリースのシングル曲『サザン・ウインド』に関する概要が述べられました。明菜さんシングル『サザン・ウインド』がリリースされたこの時期は玉置浩二さん率いる安全地帯シングル曲『ワインレッドの心』がリリースされた時期でもあり、同シングル曲が話題となり注目を集めていました。

(夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・6月8日報道発表)
デビュー3年目を迎えた昭和59(1984)年。明菜は『北ウイング』(元旦発売日)で幕を明け、その4ヶ月後には『サザン・ウインド』が発売された。



明菜のプロモート担当であったワーナー・パイオニア(現在のワーナーミュージックジャパン)の田中良明氏(現在「沢里裕二」名義で作家活動中)は当時について「バブルの夜明けと言った感じの時代。都内の飲食店もそんなイメージを漂わせていました」と前置きした上で振り返った。

「デビュー3年目の直前に発売された『サザン・ウインド』(4月11日発売日)は作詞が来生えつこ、作曲が『ワインレッドの心』で注目されていた安全地帯の玉置浩二と言うある意味で斬新と言うか、異色のコンビによる作品でした。これが瀬尾一三のアレンジ時代に融合した楽曲として仕上がったと言っていいでしょう。言い換えるならバブル期に流行した“メロウミュージック”と言うジャンルでした。つまり豊潤で気だるい避暑地的な香りの漂う音楽。何れにしても新しい明菜のスタイルが確立していったと思っています。と言うのも、この時期から明菜のファッションセンスがどんどんとがり始めたのです。徐々にですが、我々のような旧世代的アイドル感の捨てきれないスタッフとの間に溝が生まれてきたのです。思い返せば、その前から兆候のようなものはあったようには思いますが…」

更に聖子さんと比較しながら語る。「当時何かと比較されたのが聖子さんでしたが、聖子さんが大衆のアイドル像をそのまま体現し続けていたのに対し、明菜は真逆に行くように、それこそ先端を求めていたと言えます。ところが、それはあくまでも感性と言うか、感覚なんです。彼女の場合は論理的に語る訳ではないので、どうしてもスタッフとは乖離した部分ばかりが目立つようになってきたのです」



一方で『北ウイング』以降から「歌の中の中森明菜は年齢不詳になっていく」と言った見方をするのが評論家の中川右介氏であった。中川氏は自身の著書『松田聖子と中森明菜(増補版)1980年代の革命』 (朝日文庫)で次のように記している。多少長いが引用する。

『《少女A》では「所謂普通の十七歳だわ」と年齢を明示し、その年齢であることが歌のテーマとなり、以降も思春期の苛立ちと焦燥を歌っていたが、一九八四年の中森明菜は「年齢」を意識させなくなる。年齢を超越してしまうのだ。三十歳の女性の歌だといっても通用する内容になっている。それを十九歳の中森明菜は平然と歌っていた』

『トワイライト~夕暮れ便り~』を発売(昭和58年6月1日)した時のことだ。チャート1位が確実視されていたがセールスは伸び悩み、結果は最高位2位止まりに終わった。その際、当時のスタッフの間からは「名曲だったが、明菜には少し背伸びをし過ぎた感じがあったのかも知れない」と反省の意見が出た。




それから僅か半年である。今度は「年齢不詳」と言われるようになったのだ。田中氏は言う。

「これが明菜の成長振りを示す偽らざる思いでしょうね。何れにしても、振り付けを自分で考えるようになったのもこの頃だったと思います。思い返すと『サザン・ウインド』で太腿をちょっと上げて、その上でリズムに合わせて手の平を振るポーズがあったのですが、それも自らが考案したもので、その後は『DESIRE─情熱─』(昭和61年2月3日発売日)の元になっていったように思います。何れにしても明菜の代表的な動きと言う部分でも、それが最初だったように思います」

(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)