今晩は、所沢市田中則行です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースにて毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡、今週は「『北ウイング』と雰囲気一変 豪華顔触れで作られた『サザン・ウインド』」と題して7枚目シングル曲『北ウイング』の他、その後継として8枚目シングル曲『サザン・ウインド』とその概要が述べられました。丁度この年にデビュー3年目を迎え、同時期に藤井フミヤさん率いるチェッカーズがデビューした時期でした。

(夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・5月25日報道発表)



今月1日からデビュー40周年イヤーに入った中森明菜。“バラード3部作”と“ツッパリ3部作”を交互に繰り返すことでボーカル力をクローズアップさせてきた。



明菜の制作宣言を統括していたワーナー・パイオニア(現在のワーナーミュージックジャパン)の寺林晁氏(現 エイベックスエンターテイメントレーベル事業本部アドバイザー)は振り返る。

「1982(昭和57)年はアイドル激戦の年でした。その中でデビューから何らか一歩も二歩も出遅れた明菜を如何に際立たせてみるか。それが彼女のボーカル力を生かす楽曲作り、コンセプトを持った作品作りでした。彼女のボーカル力はずば抜けていましたからね」

しかしそれは「ごく初期の『作り上げられた中森明菜像』に過ぎなかった」と言うのは、やはりワーナーで明菜のプロモートを担当した田中良明氏(現在「沢里裕二」名義で作家活動中)だ。

「明菜の地位は『禁区』の時手で既に確立していましたが、アーティストとしてのターニングポイントとなると間違いなく『北ウイング』。この頃からか、楽曲も衣装もアーティスティックものを求め始め担当ディレクターとも隙間風が吹き始めてきました」



デビュー3年目を迎えた84(昭和59)年。明菜は自ら康珍化氏(作詞担当)と林哲司氏(作編曲担当)を指名しての『北ウイング』、4月には『サザン・ウインド』を発売した。

ところがこの年は明菜の“ツッパリ3部作”でデビューし注目されていた作詞家の売野雅勇氏が手掛けたチェッカーズの『涙のリクエスト』『哀しくてジェラシー』『星屑のステージ』が連続で大ヒット。

「チャートのベストテン内に3曲が同時にランクインする程の人気でした。しかも彼らがチェック柄の衣装とあって“チェック旋風”まで巻起こりました。とにかく気付いたら売野さんは一躍、売れっ子作家に上がり積めていたんです」(音楽関係者)

当時の音楽業界を振り返り「チェッカーズ独走を止められるのは中森明菜しかいなかった」と評論家の中川右介氏は著書『松田聖子と中森明菜(増補版) 1980年代の革命』(朝日文庫)で断言している。

少々長いが引用すると『4月1日、『サザン・ウインド』が発売さ作された。作詞は来生えつこだが、作曲は安全地帯の玉置浩二。前作が「北」「ウイング」で、今度は「南(サザン)」「ウインド」とひっかけてある。曲の雰囲気はがらりと変わり、浮遊感のある、中森明菜の曲としては明るいイメージの曲だ。タイトル通り、南国情緒にあふれている』『北ウイングから、彼の持つ「霧の街」に行ったはずなのに、なぜ彼女は南国にいるのだろうか──前作のイメージを引きずっているとこう思ってしまう。実際、そうなのかもしれない。ひとつひとつの曲は作り手も異なり独立しているが、歌っているのは中森明菜なので、聴く方はつい連続性を感じてしまう』と記している。




因みに『サザン・ウインド』で特筆すべきは、当時のアイドルの楽曲としては豪華な顔触れが揃ったことだ。

アレンジを中島みゆきさんや吉田拓郎さんら多くのニューミュージック・アーティストの作品を手掛けてきた瀬尾一三氏が担当。レコーディングではキーボード奏者に、寺林氏がワーナー時代に手掛けた作曲家、服部克久氏のアルバム『音楽畑』シリーズにピアノで参加した倉田信雄氏を起用。パーカーションで87(昭和62)年から10年間、中島みゆきさんのバンドマスターを務めた斉藤ノブ氏が参加した。田中氏は記憶を辿るように語った。

「デビュー2年目、3年目はそれこそ自我が目覚め始めたような時期だった。とにかく時代の空気感を敏感に嗅ぎ取る明菜の意見が必然的に現場にも反映されました。そのためレコーディングにも厚みが出てきたように思います。80年代、バブル期の世相を映すようにゴージャス性やリゾート感に包まれた作品へと変わっていたことだけは確かですね」

(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)