今晩は、のりちゃん本日2回目です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースにて毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡、今週もまた7枚目シングル『北ウイング』に関わる記事で、「聖子VS明菜の本格的な幕開け、7枚目のシングル『北ウイング』「ザ・ベストテン」で別格のパワー」と題して聖子さんと明菜さんとのランキング対決が激突した1年間とその裏事情が明かされました。

(夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・5月18日報道発表)


中森明菜7枚目シングル『北ウイング』(昭和59年元旦発売日)はオリコンのシングルチャートでは1位を逃したものの、『ザ・ベストテン』(TBSテレビ系列)では向かうところ敵なしの快進撃であった。



その一方でこの曲目が「松田聖子VS中森明菜の本格的な幕開けになった」と言うのは当時を知る音楽関係者だ。

「聖子は80年に山口百恵と入れ替わるようにデビューしたこともあり、当時CBSソニー(現在のソニーミュージックエンターテイメント)は“ポスト百恵”として積極的にアピールしてきました。そこに彗星の如く現れたのが82年デビューの明菜でした。この時は“ポスト百恵”と言うレッテルが完全に外れ、聖子対明菜と言う80年代の2大アイドル時代に突入していったのです」

それも明菜にとって『北ウイング』がターニングポイントとなった所以かも知れない。聖子は初の“失恋ソング”として発売された『瞳はダイアモンド』(昭和58年10月28日)が年を明けてもロングヒットを続けていた。

「前作の『ガラスの林檎/SWEET MEMORIES』からの評判もあって、ヒットチャートは“聖子一強”でした。『瞳はダイアモンド』も大ヒットとなり、(昭和58年)11、12月はオリコン月間1位を揺るぎないものにしていました。当然『ザ・ベストテン』も1位を独走していましたが、それを止めたのが『北ウイング』だったのです。84年1月19日放送で明菜が聖子に代わって1位を奪い取り、その後聖子が新曲『Rock'n Rouge』を発売(昭和59年2月1日)したにも関わらず5週に渡ってトップを独走したのです。『ザ・ベストテン』での明菜パワーは別格でした。因みに『Rock'n Rouge』は発売1ヶ月目の3月1日放送で1位になりました」

当時を知るアイドルウォッチャーは振り返る。



余談だが、聖子は『Rock'n Rouge』以降、84年は『時間の国のアリス』『ピンクのモーツァルト』、そして『ハートのイアリング』と3枚のシングル曲を出したが、『ザ・ベストテン』では2位止まりに終わっている。そう言った意味では苦渋の1年だったかも知れない。

「オリコンでは初登場1位は当たり前でしたが『ザ・ベストテン』ではトップに届かない。この年は明菜の“ツッパリ3部作”で注目された売野雅勇が作詞を手掛けてデビューしたチェッカーズが大活躍だったのです。とにかく出す曲出す曲、全て上位を独占していました。他にもアルフィーや安全地帯もブレークしていました。発売のタイミングがチャートを左右するので、レコード各社は新曲の発売日には異常に神経を使っていましたね。そんな中、聖子はオリコンのチャートでは圧倒的な強さを発揮していました。だからと言って『ザ・ベストテン』でも1位を取れるとは限りません。明菜の場合は『トワイライト~夕暮れ便り~』もチャートでは最高位2位でしたが、『ザ・ベストテン』では1位にランクされたんです。全国ネットの高視聴率番組ですからインパクト大です。結局、その流れが『聖子対明菜』の色合いを高めたことは間違いないですね。とにかく全く色合いの違う聖子と明菜はメディアも扱いやすかったし、視聴者或いは読者の関心も高かったのです」(前出のアイドルウォッチャー)



だが内情は「人気は聖子の方が圧倒的だったが、勢いは明菜の方があった」と言う音楽関係者が多かった。そんな中で『北ウイング』に続いて発売されたのが『サザン・ウインド』であった

(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)