今晩は、所沢市田中則行です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースにて毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡、今週も7枚目シングル曲『北ウイング』に関わる記事で「『北ウイング』後がターニングポイント 『来生姉弟&売野』…新たな作家陣加わり作品の幅が重圧的に」と題して同シングル曲のオリコンシングルチャートでわらべ(倉沢淳美さんと高橋真美さん)『もしも明日が…』に遮られて2位に止まったこと、その後も最高位2位と言う結果に終わったことなどが挙げられています。オリコンのシングルチャートで2位に止まった明菜さんの『北ウイング』ですが、TBSテレビ系列『ザ・ベストテン』では初登場1位輝きました。まさに奇跡的でしたね。同時期に聖子さんの『瞳はダイヤモンド』と杏里さんの『悲しみがとまらない』、アルフィーの『星空のディスタンス』などと言った曲目が激突する中、5週連続に渡ってトップを誇っていました。

(夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・5月11日報道発表)



満を持して発売した明菜の7枚目シングル『北ウイング』(昭和59年元旦発売日)であったが、オリコンのシングルチャートはわらべ『もしも明日が…』(昭和58年12月21日発売日)に遮られ初登場2位となった。しかも、その後も1位に届かず最高位も2位と言う結果に終わった。



「正直悔しい気持ちはありました」と言うのは同曲の作曲とアレンジを手掛けた林哲司氏だ。

「誰もが発売前から初登場1位を疑っていませんでしたからね。そう言う意味でのプレッシャーはありましたが、一方で作品には自信を持っていたのは確かなので、結果は結果で『そうだったんだ』『仕方ないよね』と言うしかありません。とは言え、チャートが気にならないと言ったら嘘になりますから、初登場2位と聞いた時は『えっ!』って思わず言った気がします。ただチャートが作品を評価するものではないので、今でも『北ウイング』が明菜さんの代表曲の1曲に数えられていることは良かったと思っています」

最もオリコンのチャートでは1位を逃したが、当時圧倒的な視聴率を誇っていた歌謡番組である『ザ・ベストテン』(TBSテレビ系列)では1月19日オンエアから2月16日オンエア迄何と5週連続で1位にランクされた。



ワーナー・パイオニア(現在のワーナーミュージックジャパン)の邦楽宣伝課で明菜の担当プロモーターであった田中良明氏(現在「沢里裕二」の名義で作家活動中)は振り返る。

「とにかく明菜の場合は1回1回を積み上げていくと言うか、歌う毎にクオリティーが高まっていくんですよ。明菜の努力もありましたが、持って生まれた才能でしょうね。『北ウイング』は歌う毎にレベルアップしていったんです。業界関係者の間でも作品としての評価は圧倒的に高かった。だからと言う訳ではないですが『ザ・ベストテン』で初登場1位に輝いたのは『北ウイング』が初めてでした。それも、わらべや松田聖子の『瞳はダイヤモンド』、杏里の『悲しみがとまらない』、アルフィーの『星空のディスタンス』などが激突する中で5週連続トップでしたから、視聴者の楽曲に対する評価だったと改めて思っています」

田中氏は「この頃から作品に対しては勿論ですが、衣装についても自身のセンスを反映させ始めるようになっていた」とも明かす。

「時代の空気感を敏感に嗅ぎ取る明菜自身の意見が強くなってきたのでしょうね。制作現場でもディレクターの意見がそのまま通らなくなってきた感じも見受けられましたね。明菜の意見と言うか、鶴の一声で当初のタイトルから『北ウイング』に変わった時には妙に納得したものです」

因みに『北ウイング』はその後、カップリング曲を『リ・フ・レ・イ・ン』(作詞:松井五郎/作編曲:松田良)に差し替えた特別両A面シングルが発売されたこともあって「最終的に100万枚以上を出荷する作品となった」(田中氏)と言う。

それだけに「今更ながら明菜のターニングポイント。『北ウイング』から『ミ・アモーレ』にかけての84~85年だと思います。と言うのは、『北ウイング』から来生(えつこさん、たかおさんの姉弟)パターンと売野(雅勇氏)パターンに、実質的に新たな作品の幅が重圧的になったんです。同時にバブル期の世相を映すかのようにゴージャス性やリゾート感に包まれた作品が現れたように思いますね。その後の明菜の音楽制作にも大きな動きに繋がったと思っています」



デビュー3作目。明菜にとっての新たな幕開けとなっていった

(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)






余談ですが、明菜さんシングル『北ウイング』が流行されている83~84年の歌謡界の内、演歌部門では渥美二郎さんの『釜山港へ帰れ』と梅沢富美男さんの『夢芝居』が流行していました。皆様方は『釜山港へ帰れ』とか『夢芝居』と言った演歌を聴いたことありましたか