今晩は、所沢市田中則行です。5月突入しました。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースにて毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡、今週は「“お化け”に阻まれたオリコン1位」と題して84年元旦にリリースされました7枚目シングル曲『北ウイング』に関する記事で、明菜さんご本人にとって同シングル曲が重要な曲目であって84年は勝負の年でもあったことが明らかでした。また『北ウイング』とほぼ同時期で前年12月にリリースされましたわらべ(倉沢淳美さんと高橋真美さん)シングル曲『もしも明日が…。』についても述べられています。同シングル曲ではテレ朝系列の萩本欽一さんバラエティー『欽ちゃんのどこまでやるの!』の挿入歌として起用されています。

(夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・4月27日報道発表)
中森明菜7枚目シングル曲『北ウイング』は千葉県・成田空港に第2ターミナルが完成する前、現在の第1ターミナル(当時は「第1」と呼ばれていなかったそう)の北ウイングが舞台となっている。



「当時、松田聖子さんと中森明菜さんはアイドルの両横綱でした。ただ2人の違いは…明菜さんはスロースターターと言うのか、じわじわといくタイプだと思いました。(制作現場の意向で)レコーディングには行けませんでしたので、デモテープでの判断になってしまいますが、とにかく一気に伸びる訳ではなく、回数を重ねていく中で完璧なものが出来上がっていく…しかも自らイメージを作り出して変えていく。そんなタイプのアイドルでした。ですから作品も最初と完成の時では見違える程違う。常にステップアップしていくと言うか、完璧主義なのでしょうね」

『北ウイング』の作曲とアレンジを担当した林哲司氏は明菜についてそう評価するが、同曲目について評論家の中川右介氏は著書『松田聖子と中森明菜(増補版) 1980年代の革命』(朝日文庫)で次のように記している。

「1992年、第2ターミナルができると同時に第1ターミナル北ウイングは改装工事に入り、99年迄閉鎖されていた。この北ウイングが閉鎖されていた時期は中森明菜が多くのトラブルとスキャンダルに見舞われ、歌手活動が混迷していた時期とほぼ重なる。中森明菜のファンは成田に行き、北ウイングが閉鎖されているのを見る度に彼女の不幸に思いを寄せたものだった。工事による北ウイングの閉鎖と中森明菜の混迷振りに因果関係があるのではないかと思える程『北ウイング』は彼女にとって重要な曲だった」

その『北ウイング』が発売されたのは84(昭和59)年元旦だった。前年は「賞レース」、更には『NHK紅白歌合戦』と大晦日まで『禁区』1本に絞ったこともあって、『北ウイング』の露出展開は「正直厳しかったのではないか」と分析する音楽関係者もいるが、1月9日付のオリコンのシングルチャートは初登場2位となった。林氏は振り返る。

「1月1日発売と言うのはレコード会社の戦略で、誰もが84年の最初の1位中森明菜だと思っていた筈です。当然、僕もプレッシャーのようなものを感じていたのですが…それが2位と聞かされ正直ショックと言うか…。2位になった理由をレコード会社の担当者は『お化けが出た』と言うのですよ」

お化け─明菜の1位を阻止したのは、わらべ『もしも明日が…。』だった。同曲目は前年12月21日発売された。このためチャートは「年末年始の合算データ」になることから、結果的に1週間のデータしかカウントされない明菜にはハンディが大き過ぎたことは確かで「結果的に戦略ミス」(音楽関係者)だったかも知れない。

『もしも明日が…。』はテレ朝系列の欽ちゃんバラエティー『欽ちゃんのどこまでやるの!』の挿入歌で「わらべwith KINDOKO FAMILY」として発売された。レギュラー出演していた倉沢淳美さんと高橋真美さんに加え、藤本正則さん(後に「見栄晴」の芸名が付いた)、真屋順子さん、小堺一機さん+関根勤さんコンビがコーラスに参加した話題曲であった。



ワーナー・パイオニア(現在のワーナーミュージックジャパン)邦楽宣伝課で明菜のプロモート担当であった田中良明氏(現在「沢里裕二」名義で作家活動中)は振り返る。

「チャートの動きでは『トワイライト~夕暮れ便り~』と似ている部分がありますね。この曲は薬師丸ひろ子の『探偵物語』に1位を奪われました。やはり企画性の高いテレビの挿入歌や映画の主題歌と言うのはインパクトがあるのです」

因みに『もしも明日が…。』は84年のオリコン年間シングルチャートで1位にも輝くほどの大ヒット曲になった。

(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)