今晩は、所沢市田中則行です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースにて毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡、今週もまた6枚目シングル『禁区』に関する記事で「斬新な衣装への拘り 『読者はスタッフが選んだ衣装とは思わない』紅白出場決定でスタッフを困らせた」と題してNHK総合テレビ『第34回紅白歌合戦』に初出場決定したその時点でステージ衣装をどのように決めるかの問題点が明かされました。また80年代当時のある音楽関係者の方から、昭和57年~59年の3年間に渡る紅白出場に於いて“花の82年組”(明菜さんの他、シブがき隊、早見優さん、小泉今日子さん、堀ちえみさんなど)アイドルの出場が激戦であったことも述べられています。

(夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・3月16日報道発表)
中森明菜6枚目シングル曲『禁区』(昭和58年9月7日発売日)はオリコン週間ランキングで初登場1位となった(同年9月19日付時点)



第4弾シングル『½の神話』以来のものであった。そして同曲目によって大晦日恒例のNHK総合テレビ『第34回紅白歌合戦』に初出場した。音楽関係者は言う。

「82年は有望な新人アイドルが次々とデビューした年で“花の82年組”とも言われ、今でも第一線で活躍しています。それだけに『紅白』出場は激戦だったんです。デビューの年に初出場を果たしたのはシブがき隊だけ。2年目の83年で初出場したのは明菜と早見優だけでした。で、小泉今日子と堀ちえみは翌84年だったんです。以外だったのは松本伊代かも知れません。『センチメンタル・ジャーニー』や『抱きしめたい』『時に愛は』など確かにヒットはあったのですが、発売のタイミングが全て11月以降だったため、結局は出場が叶いませんでした。明菜の場合、83年はNHKによる出場させたい歌手の世論調査でも松田聖子と並んで上位クラスに入っていましたから、新人アイドルの中でも突出した存在だったのは確かです」

実際、明菜の所属レコード会社であるワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージックジャパン)で、明菜のプロモーター担当していた田中良明氏(現在『沢里裕二』名義で作家活動中)も話す。

「我々にとって日本レコード大賞と比べて、紅白はそれまでの実績から出場はほぼ間違いないと判断していました。正直、対策と言う対策は全くしていなかったと記憶しています」

その一方で「紅白出場が発表された時、明菜本人はお母さんに一番喜んでもらいたかったようです。親孝行と言うことかも知れません、本当に嬉しかったと思いますよ。おそらく紅白と言うのはそう言うものなのでしょうね」

しかし出場が決まっても、喜んでばかりではいられなかった。

「決まったら決まったで、その後が大変だった」と田中氏は振り返る。

「出場が決まった後、衣装の問題が出てきた時は一大事でしたね。それまでステージ衣装は基本的にスタッフ主導で決めていました。しかし明菜自身は口に出してはいませんでしたが、納得してはいなかったのでしょう。紅白になると、流石にそうはいかなかったんです。とにかく明菜自身は、それまでのアイドル的なミニスカートやドレスに疑問を持ち始めていましたから…担当スタイリストやディレクターは連日連夜、打ち合わせをしていましたよ。とにかく、明菜も納得する斬新なものを作り上げようと必死でしたね」

その結果、金と黒であしらったゴージャスなミニドレスが完成した。一方で紅白出場が決まり、雑誌の取材が一気に増えると、明菜の衣装への拘りは日々の取材にも現れてきた。

「とにかくアーティスティックな衣装を求め始めました。ところが基本的にアイドル取材では、編集者は可愛いアイドルチックなものをどうしても要求してきます。しかし明菜は“読者は、それをスタッフが選んだ衣装とは思わない。私が『明星』や『平凡』を見ていた時は、アイドルが自分の好きな衣装を着ていると思っていた”と言うんですよ。で、徐々にそうした雑誌とはアジャストしなくなってしまった。要するに『着てほしい衣装』が違い過ぎると、プロモーションとは言え取材を断るケースが増えてきたんです。かといって、明菜の場合インタビューも苦手でしたからね、結果的にテレビの出演学校中心になっていたんです」

そうした流れは、実は『禁区』が一つのターニングポイントになったのではないかと田中氏は言う

(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)