今晩は、所沢市田中則行です。昨日に続き夕刊フジZAKZAK芸能ニュースにて毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡を配信します。今週は『「賞レースはスタッフの闘い」の意識 自身は競争に対して非常に冷めていた』と題して明菜さんのプロモート担当していた田中良明さんが当時のアイドル界の状況とスタッフの動きを振り返ったことや当時のレコード会社 ワーナー・パイオニアでデビュー以前から明菜さんを見守り続けてきた寺林さんの動きとそれらの裏事情が取り上げられました。また83年9月発売の6枚目シングル曲『禁区』でNHK総合テレビ紅白歌合戦への出場が決定されたことも述べられています。

(夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・3月9日報道発表)
デビュー2年目の昭和58年、6枚目のシングル曲『禁区』で勝負を賭けた明菜であったが、作品自体はデビュー曲『スローモーション』、その後の『セカンド・ラブ』『トワイライト~夕暮れ便り~』の“バラード3部作”、そして“ツッパリ3部作”と言われた『少女A』『½の神話』に続く作品と考えると、明菜にとっては「初期の頃の『作り上げられた中森明菜像』だったのではないか」と当時ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージックジャパン)で明菜のプロモートを担当した田中良明氏(現在「沢里裕二」名義で刑事物の官能小説家として活動している)は振り返る。

「当時のアイドル界は総じてスタッフの意向が強く働いていました。いくら明菜が急成長したとは言え、その方向性を含めコンセプトはスタッフが決めていました。勿論衣装も同じ。その辺りは明菜にも不満があったと思いますが、それはそれで仕方のないことですからね。とは言え、明菜の人気は“ポスト百恵”以上に松田聖子さんと並ぶほどになっていましたから、どうしてもスタッフとの力関係は崩れ始めていた部分は否めませんでしたが…」

そう言う中で田中氏が感じていたのは「確かに『禁区』は初登場1位を取り、『少女A』や『½の神話』と 同様に反響を呼びましたが、それはキャッチフレーズ的な“妙”だと思います。しかもマスコミは勿論、ユーザーも“ツッパリ明菜”を演出したがっていたと思います。ですから『禁区』を含めた路線は自分そのものの人格を否定されるのではないかと快く思っていなかったようです」と言うことだ。田中氏は続ける。

「実際、明菜自身は来生えつこ・たかおの姉弟による“バラード路線”の方が好みでした。しかしそれが一つの戦略だったので、彼女との間に生じた多少のズレは仕方のないことです。それは明菜自身も理解していたので従ってきたのだと思いますけどね」




そんな理由もあったのか、明菜自身は不思議と「賞レースに出たい」とか「大賞が欲しい」と言うことは口にしなかった。明菜の心情について、当時を知る音楽関係者は振り返ってくれた。

「思うに他のアイドルやアーティストとは異なり、競争する、争うと言う意識が明菜からは感じられませんでしたね。もしかしたら、表情に出さないだけだったのかも知れませんが…非常に冷めていたことだけは確かです。おそらく前年の新人賞レースの際、賞レースとは『実績と受賞は別物』と言うことを知ってしまったのかも知れませんね。要するに、レコード売り上げとは別の物なのだけど…」

ただ、ワーナーではデビュー以前から明菜を見守り続け、信頼を寄せていた寺林晁(現エイベックスエンターテイメント レーベル事業本部アドバイザー)氏が動いていたことも大きかったと言う。「もしかしたら明菜なりの忖度があったのかも知れませんね」と前出の音楽関係者は話す。

「明菜の意識の根底には『賞レースはスタッフの闘い』と言う意識がハッキリあったように思いましたね。とにかく寺林さんが賞レースの陣頭指揮を執っていましたが、その執念は凄まじかったですね。ですから、明菜も『頑張ります』と従っていたのかも知れませんが、ワーナーとしては殆ど未経験の分野でしたからね。私自身は勿論新人賞レースのリベンジと言う気持ちでしたが、スタッフの立場としては、それはもう大変でしたよ」と振り返る田中氏。

その一方で「この時は『日本レコード大賞』と、もう一つ『NHK紅白歌合戦』があったんです。勿論担当が分かれていますが、其々の立場で大変さが違うんですよ。とにかく、改めて思うのは『レコ大』は邦楽宣伝課の勝負だったように思いますね」と話す。

そして出た結果。先ずは『禁区』で紅白歌合戦への出場が決まった

(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)