今晩は、所沢市田中則行です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースにて毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡、先週も6作目シングル曲『禁区』に関する記事で、オリコンチャート初登場1位にランクされてホッとしたが、同シングルの前作『トワイライト~夕暮れ便り~』が初登場2位止まりで逃した新人賞のリベンジはここから始まったとの内容でした。

(夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・3月2日報道発表)
「本人はともかく、スタッフはみんな熱くなっていました」

ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージックジャパン)で明菜の宣伝を担当した田中良明氏(現在「沢里裕二」として作家活動中)はそう振り返った。

“バラード3部作”と“ツッパリ3部作”と言う2つのパターンを交互に繰り返しての6作目─最後の作品となった『禁区』(昭和58年9月7日発売)は9月19日付けオリコンチャートで初登場1位にランクされた。前作『トワイライト~夕暮れ便り~』が初登場2位で、最終的に1位を逃していただけにスタッフの喜びも大きいものがあった。


「デビュー1年目の新人でしたが、既に『セカンド・ラブ』『½の神話』の2作が1位だったので、業界内には1位が当たり前と言う雰囲気がありました。なのに2位とは正直屈辱でした。勿論『禁区』の1位は当然の結果と思いましたが、ただどこか汚名を返上したような気分と同時にほっとしたようなところもありました」と田中氏は言うが、その一方で『禁区』の1位は同時に「快進撃の始まり」にもなったとも。

「前年の新人賞レースでは、出場しながらも多くで最優秀新人賞を逃しましたからね。当時私自身はまだ明菜の担当ではありませんでしたが『あれほど売れたのに…』と言う思いはありました。それもあって、気持ちの中では新人賞を取れなかったことにリベンジしたいと言う気持ちはありました」

そこで賞レースの陣頭指揮を執ったのはデビュー当時から明菜の制作宣伝を統括してきた寺林晁氏(現エイベックスエンターテイメント レーベル事業本部アドバイザー)であった。寺林氏は海外アーティストのイベント会社、ウドー音楽事務所から邦楽強化のためにワーナーに転職。同社に矢沢永吉さんやCHAGE and ASKA(当時はチャゲ&飛鳥)を引っ張ってきたのも寺林氏で、その宣伝展開は業界でも一際目立っていた。当時の音楽関係者は言う。

「ウドー時代、英ロックミュージシャン、ピーター·フランプトンの来日公演(昭和53[1978]年)で、寺林さんは文部大臣だった砂田重民氏との異色の対談を実現させ、NHKの夜9時のニュース(当時は『ニュースセンター9時』でキャスターは磯村直徳アナウンサー)で放送を仕掛けました。当時はロックは反社会的な音楽と言う意識が根強かったのですが、文部大臣まで引っ張り出してのプロモーションが功を奏しロック・アーティストのイメージを一転させるきっかけを作りました」とした上で「明菜もデビュー当時から宣伝費1億円を注ぎ込んだり、チャート情報誌『オリコン』の記事頁を買い取って業界内での知名度が低かった明菜を編集したりと話題を独占しました。手段を選ばないやり方には批判もありましたが破天荒で知られていたんです。その寺林さんが賞レースに本格的に参戦すると言うので明菜への業界内の注目度が一気に高まりました。ワーナーが明菜で何を仕掛けてくるのかと戦々恐々とした雰囲気が漂っていましたね」



当初、社内的には『トワイライト』で賞レースに参戦すると思われたが、最終的に寺林氏の一存で『禁区』で勝負を賭けることになったと言う

「賞レース対策については、ワーナーと所属事務所の研音が一体になって取り組むことになったんです。9月の半ば過ぎだったとは思いますが、それこそ連日深夜まで会議していたように記憶しています」(田中氏)

会議に出席していたワーナーの営業マンによると「お歳暮の話しになった時、洒落で審査員全員に“圧力釜”を贈ったらどうかなんて案まで出てきたことを覚えています。今振り返ったら笑っちゃうような計画が沢山出ましたからね。何れにしても何としても賞を取りたいと言う気持ちは、もしかしたら明菜本人以上にあったかも知れませんね」

(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)





明日は『「賞レースはスタッフの闘い」の意識 自身は競争に対して非常に冷めていた』と題して引き続き歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡を配信します