今日は、所沢市田中則行です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースにて毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡、今週もシングル曲『禁区』関する記事で、当時のワーナー・パイオニアで明菜さんのプロモートを担当していた田中良明さんが明菜さんご自身の本音の部分では不満だらけだったと感じたことが述べられています。

(夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・2月16日報道発表)
「単なるアイドルとして育てる気持ちは最初からありませんでした」

当時、ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージックジャパン)で明菜の制作宣伝を統括していた寺林晁氏(現エイベックスエンターテイメント レーベル事業本部アドバイザー)は明かす。

「『スター誕生!』(日テレ系列)で彼女のボーカルを初めて聴いた時から、この子はボーカリストとして育てたら大化けすると確信していました。結果論と言えば簡単ですが、やはりスタッフの努力や彼女の運と言うのが大きかった。ただ、デビュー前からコンセプトを持った作品作りに拘ったことと彼女のボーカル力が時代にははまったことだけは確かでしょう」



デビュー2年目。昭和58(1983)年9月7日に発売された通算6枚目のシングル曲『禁区』は寺林氏にとっても一つの区切りの作品でもあった。

「来生えつこと来生たかおのコンビは当時、薬師丸ひろ子さんのデビュー曲『セーラー服と機関銃』の大ヒットで知られてはいましたが、まだメジャーではありませんでした。しかし、このコンビでの『スローモーション』『セカンド・ラブ』、そして『トワイライト~夕暮れ便り~』と言う“バラード3部作”、それにまだ作詞家としては全く無名だったコピーライター出身の売野雅勇を起用しての“ツッパリ3部作”を交互に出す戦略は見事に当たりました。確かに制作現場での紆余曲折もありましたが、結果的に『少女A』『½の神話』『禁区』と言う3部作で攻めることができました。“花の82年組”の中で明菜は後発のデビューで、どうしても出遅れ感がありましたからね。私としては2つのパターンで明菜のボーカル力をクローズアップさせることで差別化を図りたかった。プロモーション戦略として最初から描いてきたものでした」

結果的ではあるが、これはその後の「歌姫シリーズ」に結び付いたことは言うまでもない。

『トワイライト~夕暮れ便り~』は作品としての評価は高かったものの、明菜の作品としては伸び悩んだが、次のシングル『禁区』は売野氏と当時のイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)で活動していた細野晴臣氏と言った異色のコンビでの作品で注目された。

「この年、細野は松田聖子に書き下ろした『天国のキッス』が大ヒットしていましたが、明菜の『禁区』は荻田光雄のアレンジもあってテクノ・サウンドになっていた。このコントラストが功を奏したのかも知れません。流れが大きく変わり、明菜の快進撃に繋がった」(当時を知る音楽関係者)



一方、ワーナーで明菜のプロモートを担当していた田中良明氏(現在は「沢里裕二」として作家活動中)は振り返る。

「デビュー当時のプロモーションには絡んでいませんでしたが、明菜の場合は他の新人アイドルとは違って比較的にレコード会社が主導で動いていた部分があったようです。やはり事務所がアーティスト系を手掛けるのが初めてだったこともあり、任せざるを得なかったのかも知れません。私がレコード会社と事務所が一体となってプロモートするようになったんですが、スタッフに対して私が感じたのは明菜自身は本音の部分では不満だらけだったとは思います。まだ口に出してまでは言わない…そんな感じでした。私の前任のプロモーターはデビュー前からの関係もあったし、明菜とも馬が合っていたようですが、やはり担当が変わると雰囲気も一変しますからね。特に明菜は敏感でしたから。17歳ぐらいでしたが、妙に冷静な感じでちょっと雰囲気には不気味さがありましたね」

そんな中、『禁区』の発売に向けて新たなプロモーションが始まった

(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)