今晩は、所沢市田中則行です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースにて毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡、先週の続きとして今週も83年に新宿区の新宿厚生年金会館と群馬県太田市の太田市民会館を始めとする全国18都市で開催された明菜さん初の全国ツアーコンサート『Akina Milkyway'83 春を感じて』について取り上げられました。またデビューから10ヶ月足らずで新人の枠を超えた存在感であったことも述べられています。

(夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・1月26日報道発表)



シングル曲『½の神話』発売から1ヶ月後の1983(昭和58)年3月23日、通算3枚目のアルバム『ファンタジー〈幻想曲〉』をリリースした明菜は、新宿区・新宿厚生年金会館(2月27日)を皮切りに群馬県太田市・太田市民会館(6月19日)まで全国18都市で全19公演『Akina Milkyway'83 春を感じて』を繰り広げた。明菜にとっては初の本格的全国ツアーであった。



このシングルとアルバム、全国ツアーから担当プロモーターとして参加することになったのが田中良明氏(現在では「沢里裕二」として作家活動中)だ。

当初、田中氏はコピーライターとして売野雅勇氏と共に東急系の広告代理店にいた。ところが売野氏が『少女A』などの作詞で“時の人”となる中、アーティストのプロモーションに興味を抱きワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージックジャパン)に転職。配属されたのが邦楽宣伝課であった。ところが社内は明菜の「移籍」を巡って、新レコード会社『マイカルハミングバード』が設立されると言う“お家騒動”が勃発していた。

「明菜のシングルやアルバムの発売が迫っている中で一体、どうなるのかと思っていたところ、デビュー当時から明菜の制作、宣伝を担当してきた殆どの社員が転職してしまったのです。そこで残留スタッフだった私が明菜の宣伝を担当することになったのです」


明菜はデビューして、まだ10ヶ月足らずだったが「既に新人の枠を超えた存在感だった」と言う。

「とにかくスタッフに不満だらけだったことは直感しました。しかし彼女自身は、不満を口には出さない…そんな感じを漂わせていたんです。まだ年齢としては16、17歳でしたが、妙に冷静な感じでした。何れにしても異様な緊張感に包まれていた…それが今でも脳裏に残っています」

ネットで明菜について検索すると「デビュー初期の段階から衣装、メイク、振り付けには自ら関わり、楽曲に対しても積極的に意見を取り入れていた」と記されている。が、実際の明菜はどうだったのか??

「当時の所謂アイドル界は、まだ本人よりもスタッフの意向の方が強く働いていました。要するに本人がどうしたいかより、所属事務所やレコード会社のスタッフが『こういった方向で』『こんな衣装で』『こんな雰囲気で…』と言った具合に、大人の事情で決めていました。思い返すと私自身もそう考えていた節が多々あったように思います」

その上で衣装については「正直言って心の中では反発していたと思いますよ。その後の明菜の衣装を見たら分かると思いますが、とにかく彼女のファッションセンスはずば抜けています。私がプロモートを担当してからも暫くは、衣装がどんなに気に入らなくてもハッキリと『着たくない』とは言わなかったと記憶しています。低い声で『はい、分かりました』と。それが実に不気味な感じでしたね」



一方でコンサートについては自らの意思を明確に示していたと言う。

「当時のアイドルは昼夜2公演でしたが、明菜はそれを異常に嫌っていました。基本的にステージでの動きやMCは台本があり細かく決まっていましたが、いざ始まると1日に同じ台詞を繰り返すのは変だし、嫌だと…。あと彼女自身のスタンスでしょうけど『コンサートは夜にやるもの』と言う明確な意思があったんです。また移動の際は搭乗する飛行機をチェックするなど気にしていましたね。耳に気圧の影響を受けたままリハーサルに入りたくないと言うのが理由だったようです。とにかくストイックで、自分が納得しないと気が済まない、完璧さを求めていたことは強く感じました」

表現者としての明菜の最低限の拘りであったのかも知れない

(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)