今晩は、所沢市田中則行です。今年も来ました夕刊フジZAKZAK芸能ニュースにて毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡、今年最初は周りの考えるアイドル衣装に「キャバレーみたい」と反発されたこと、ずば抜けたファッションセンスとその開花について取り上げています。また前回に続き83年シングル曲『トワイライト~夕暮れ便り~』に関する裏事情についても報じられています。

(夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・1月5日報道発表)
中森明菜シングル曲『トワイライト~夕暮れ便り~』はセールスこそ伸び悩んだものの、一方で有線放送やラジオ、テレビなどの露出は絶好調だった。ある音楽関係者が振り返る。

「ラジオでは“電リク”と言われた電話リクエストの番組、テレビでは『夜のヒットスタジオ』(フジテレビジョン系列)を始め『ザ・ベストテン』(TBSテレビ系列)や『ザ・トップテン』(日テレ系列)と言った高視聴率の歌謡番組が連日競い合っている時期でした。その中で明菜は1980(昭和55)年デビューの聖子と並んで“ポスト百恵”の最右翼として注目されていました。更に言えば70年代後半はピンク・レディー、80年代は聖子と明菜だったと言っても過言ではありません。それこそ明菜を見ない日はないと言うぐらいの存在となっていました。最も明菜自身は山口百恵は憧れの存在だったかも知れませんが、一方で“ポスト百恵”と言われることには抵抗があったと思いますよ。彼女は自分は自分と言う感じでしたからね」

彼女のスタンスについては明菜のプロモーターであったワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージックジャパン)邦楽宣伝課の田中良明氏(現在では「沢里裕二」として作家活動中)も「“ポスト百恵”になろうなんて1mmも考えていませんでしたよ。我々にしても彼女の存在を認知してもらうための表現に過ぎませんでした」と言うが、一方で明菜について最も脳裏に残るのは「衣装への拘り」だったと言う。

「僕が明菜のプロモーターになったのは83(昭和58)年になってからでしたが、現場で彼女と会った第一印象は、とにかく衣装に相当不満を抱いていたことでしたね」

衣装について人一倍にしていたことは有名な話だ。ネットでは「デビュー初期の段階より、衣装・メーク・振り付けに自身が関わり、楽曲制作においても積極的に意見を取り入れていく」と指摘されているほどだ。実際はどうだったのか??




ワーナーでデビュー前から1年間、明菜のプロモートを担当してきた富岡信夫氏(現モモアンドグレープスカンパニー代表取締役)は言う。

「そもそもデビュー時の衣装も気に入らなかったようでぼやいていましたからね。『センスが悪い』とか言って…それでも我慢して着ていましたよ。明菜は黒を基調とした渋い衣装が好みだったんですとは言え、デビューの衣装を渋めにするとか、黒にする訳にはいきませんからね。勿論彼女からセンスのことを言われたら返す言葉もありませんでしたが…明菜の場合は基本的に普段でも着ることのできる衣装が欲しかったのかも知れませんね。しかし予算の関係もあるので幾つもできませんでしたが、ただ衣装は必ず自分で持ち帰ってしまうんですよ。衣装への拘りは、そんな行動からも感じましたね」

一方、田中氏は「当時のアイドルの衣装は大抵がパラシュート型に裾が広がったミニワンピースでした。アイドル誌の衣装はお嬢様風。ステージでも堀ちえみさん、早見優さん、小泉今日子さん…みんな似たようなデザインで色の濃いアイドル衣装で並んでいました」と話し、こう続けた。

「ところがある時、明菜が僕に言ったんですよ。『キャバレーの衣装みたい…』『普通こんな服、着ないと思いませんか』って。衝撃的でしたね。僕はアイドル誌の衣装はその人の好みで着ていると思っていたんです。まだ16、17歳でしたが、周りの大人の考える衣装やお仕着せの私服に彼女なりに反発していたんですね。その後の事です。明菜の衣装を見れば一目瞭然ですが、彼女のずば抜けたファッションセンスに驚かされたのは…まさに彼女の本能が炸裂し、誰でもない明菜が開花していくのを目の当たりにしました」

(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)