今晩は、所沢市田中則行です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースにて毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡。今週は幻となったレコード会社移籍とその事情、1年目と2年目で状況が一変したこと等が取り上げられました。

(夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・11月17日報道発表)
「中森明菜が移籍するかも知れない」

デビュー1年足らずのアイドルに巻き起こった事態にワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージックジャパン)の社内は疑心暗鬼に陥っていた。

「新しいレコード会社設立の相談は当初から受けていました」と言うのは塩崎喬氏である。

塩崎氏はワーナー設立時に渡辺プロの系列会社『渡辺音楽出版』から設立メンバーとして送り込まれた人物。設立後はディレクターとして小柳ルミ子さんの『瀬戸の花嫁』や『私の城下町』、狩人の『あずさ2号』等のヒット曲目を連発し“名物ディレクター”として業界でも知られた人物である。

「外資系のレコード会社だったので、やりにくい部分があったことは確かです。なので新しいレコード会社の設立に反対はしませんでした。ただ明菜に限らず、アーティストの引き抜きだけは反対でした。ところが私の知らないところで(明菜のプロデューサーが)事務所と交渉したようで、その後制作部門を一緒にやってもらえないかと言われたんです。しかし話が違うと。私にも意地はありましたからね。明菜が移籍したら安泰でしょうが、損得勘定だけで新しいレコード会社を考えたくなかったのです」と結局、新しいレコード会社『ハミングバード』(後のマイカルハミングバード)への参加を断った。塩崎氏の「美学」だったのかも知れない。

「明菜が移籍する確率は低いと見ていましたけどね。ただ、設立に向けては私なりに協力してきただけに正直裏切られた気持ちがありました」

結果的に明菜の移籍は幻になった。
富岡信夫氏(現モモアンドグレープスカンパニー代表取締役)に代わり明菜の担当プロモーターとなったワーナー邦楽宣伝課の田中良明氏(現在『沢里裕二』名義で作家活動中)はこう語る。

「移籍は免れましたが、私が担当を命じられた『½の神話』の発売当時は『(ハミングバードの)体制が整ったら、再び引き抜きに動くんじゃないか』と言う警戒感が社内に根強く残っていた気がします。逆に『取られてたまるか』と一丸になったところがあったように思います」

一方で田中氏には「多分(今後も)移籍はないだろうと言う漠然としたものはあった」と言う。
「ハミングバードに移った人達と、明菜の事務所との関係はそれなりに太かったのは確かです。ただ、その関係を超えるほど明菜の存在が大きくなっていたのです。当時はバブルのとば口で、海外レコーディングやジャケット撮影がどんどんワールドワイドになっていました。そんな中、洋楽系イベンター(ウドー音楽事務所)出身の寺林さん(現エイベックスレーベル事業本部アドバイザー)の持つ海外人脈が明菜には必要でした。しかも寺林さんは矢沢永吉や柳ジョージらを移籍させるなど邦楽部門を強化していたので、明菜も将来を考えた筈です。それほど1年目と2年目では状況が一変していたのです」


ハミングバードの移籍騒動。最終的に異を唱えたのは明菜の母親だと言われている。

「明菜自身は、寺林さんの意向もあり移籍の話は知る余地もなかった筈。それに今、振り返ると明菜は『世界のワーナー』と言うブランドイメージを気に入っていたように思います。デビュー前から担当していた富岡さんや『スター誕生!』のスタッフとPV撮影でロサンゼルスに行き、ワーナー本社にも行ったことを自慢していましたからね。それに矢沢の大ファンで、一緒のレコード会社と言うことも嬉しそうでした。そんな部分をお母さんも理解していたのだと思いますね」田中氏はそう振り返った

(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)