今晩は、所沢市田中則行です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースにて毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡、今回では4枚目シングル曲『½の神話』発売前に於けるワーナー内での“お家騒動”と新レコード会社にスタッフが引き抜きされたことと明菜さんご本人のレコード会社移籍交渉に関わることなどが報告されました。

(夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・10月27日報道発表)

昭和58(1983)年の音楽業界は、中森明菜『セカンド・ラブ』で明けたと言っても過言ではなかった。しかし、一方で新曲『½の神話』の発売が2月23日に決まり、ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージックジャパン)ではクロスする形で宣伝や販促体制を組成していた。

そんな中、明菜を担当する邦楽宣伝課のプロモーターはデビュー前から担当してきた富岡信夫氏(現モモアンドグレープスカンパニー代表取締役)に新たに田中良明氏が加わった。今でこそ田中氏は『処女刑事』シリーズや『極道刑事─キングメーカーの野望』等を手掛ける人気作家「沢里裕二」として活躍しているが、その頃は売野雅勇氏と同じ広告代理店のコピーライターからワーナーに転職し、同様に配属されていた。



田中氏は振り返る。「中森のプロモーターを担当するとは夢にも思っていませんでした。ただ、82年の新人賞レースを見ていて、実績とは裏腹に苦杯をなめ続けていたことは私自身も悔しい思いだったので、就いた時にはキチンと賞を取らせてやりたいと言う意気込みでしたね」

しかし『½の神話』の発売を前にワーナー内で思わぬ“お家騒動”が勃発した。そこで取り沙汰されたのが「中森明菜移籍」であった。当時を知る関係者は「ワーナーの企業背景が絡んでいました。そこに明菜が巻き込まれてしまった。ただ、この騒動はワーナー存続にも関わる深刻な問題でした」と語る。

ワーナー・パイオニアは社名の通り、米国のワーナー・ブラザーズとパイオニアの合弁会社であった。当初はそこに渡辺プロダクションも加わっていた。ところが「渡辺プロが78年に新たにSMSレコードを設立してワーナーから離れてしまった。結果、ワーナーの資本構成が大きく変わり、経営の主導権をワーナー・ブラザーズに握られてしまったことが引き金になったのだと思います」 (前出の関係者)

この資本構成にパイオニア出身者であった役員は不満を感じていた。

「そのタイミングで生まれたのが明菜でした。そこで新規事業を担当していた役員が新しいレコード会社の設立を仕掛けたのです」 (前出の関係者)

この役員が真っ先に相談したのがプロパーの塩崎喬氏であった。塩崎氏はワーナー設立時に渡辺プロの系列会社「渡辺音楽出版」から設立メンバーとして送り込まれた。設立後はディレクターとして小柳ルミ子さんの『瀬戸の花嫁』や『私の城下町』、更に狩人の『あずさ2号』などのヒット曲を手掛けてきた辣腕制作マンである。塩崎氏が当時を振り返った。

「明菜の移籍を想定していたとは聞かされていませんでした。とにかく新しいレコード会社の設立に協力してほしいと。私的にも関係が深かった方だったので協力は約束しました。ただ、条件としてワーナーからはアーティストを引き抜くことだけはしないと言うことだったのです」



新しいレコード会社には、先ず制作の要が必要と感じていたのであろう。設立に向けての体制づくりは着々と進められていた。何と、デビュー前から明菜の制作、宣伝に関わってきたコアスタッフを全員引き抜く折衝が水面下で行われていた。富岡氏は振り返る。

「設立に参加してほしいと直接言われました。最も明菜の話は全くなかったですね。私は独立を考えていたので声が掛かったのだと思っていましたが、その時一旦は断りました。ところが『独立を考えているなら、新しいレコード会社で実績を重ねた方がプラスになるんじゃないか』と言われ、それも一理あるかなと…」

直接ではなかったが、田中氏にも声が掛かった。「同僚を通して内々に話がありましたが、制作、宣伝、更には営業も含め主力のスタッフ全員に声が掛かっていたと聞かされ、正直ビックリした記憶があります」

しかもスタッフと同時に明菜の移籍交渉も進んでいた。そして設立されたレコード会社が『ハミングバード』であった。しかも設立日は第4弾シングル『½の神話』の発売日である昭和58(1983)年2月23日、その日であった

(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)