今晩は、所沢市田中則行です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースにて毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡、今週は売上直結するチャート番組を席巻し見事にはまった3部作戦略に関して報じられました。

(ドコモdメニューニュース及びGoogleニュース/ヤフーニュース内 夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・10月20日報道発表)
中森明菜がデビューした昭和57(1982)年の音楽番組は、ラジオが売りにしていたヒット・チャート番組をテレビに持ち込んだ『ザ・ベストテン』(TBSテレビ系列)、『ザ・トップテン』(日テレ系列)、そして『夜のヒットスタジオ』(フジテレビジョン系列)がメインであった。

中でも明菜がいち早く出演したのが『ザ・ベストテン』である。明菜のプロモート担当であったワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージックジャパン)邦楽宣伝課の富岡信夫氏は「数ある音楽番組でも、売り上げが番組に即反映されるチャート番組が高視聴率だったことは、明菜にとって大きな武器になったのは確かです。結果的にチャート番組がレギュラーになり、明菜の人気に拍車をかけたわけですから」

『ベストテン』で3枚目のシングル『セカンド・ラブ』は、出世作の『少女A』と入れ替わる形でランクインし、3週目(昭和57年12月16日)で1位を獲得。そのまま越年し、昭和58(1983)年2月3日放送回まで8週に渡ってトップの座を独占した。富岡氏は振り返る。

「デビュー曲『スローモーション』から『少女A』『セカンド・ラブ』と言う楽曲の切り替わりは、新人アイドルとしては衝撃的だったと思います。しかも、明菜の歌手への拘りを見せ付けたのは83年に入っての放送だったと思いますが、風邪をひいて声が出にくかった時があったんです。これは記録にも残っていますが、我々を含めスタッフは体調を気遣って口パクを提案しました。ところが明菜は生で歌うと…。結局、声が出なくて悔しい思いをしましたが、プロ根性と言えば簡単ですが、ファン、そして視聴者は騙せないと言うことなんです。どんな条件でも自分の歌は生で伝えたかったのだと今でも理解しています」

明菜の成功は歌唱力と表現力による部分が大きかったが、それ以上にワーナーの制作宣伝スタッフによる楽曲と方向性、戦略が見事にはまったことも確か。富岡氏は言う。

「明菜の場合は事務所が音楽面で経験が浅かったこともあり、楽曲制作や宣伝については我々に全てを任せてくれていたことが良かった。現場でも事務所との間に殆ど弊害はありませんでした勿論、それは上司の寺林(現エイベックスエンターテイメント レーベル事業本部アドバイザー)によるところが大きかったと思いますが…」



そして、ワーナーで明菜の制作宣伝を統括していた寺林晁氏は「デビュー当時からコンセプトを持った作品作りに拘るように現場には指示していました。明菜ならではの戦略が、来生えつこさんと来生たかおさんのコンビによる『スローモーション』『セカンド・ラブ』、そして『トワイライト~夕暮れ便り~』と言う“バラード3部作”であり、当時は無名の作曲家だった売野雅勇さんを起用した『少女A』『½の神話』『禁句』の“ツッパリ3部作”でした。作家の起用に間違いがなかったことで成功した部分もありますが、この戦略は明菜だから成功したと思っています。とにかく、私は2つのパターンの作品を交互に出すことで、明菜のボーカル力をクローズ・アップさせるプロモーション戦略を立てていました」と語る。

この流れが、その後の『歌姫シリーズ』に繋がったのである。そんな中、ワーナーの中で明菜を巡ってのお家騒動が勃発した

(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)