今晩は、所沢市田中則行です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースにて毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡、今週も4枚目シングル曲『½の神話』に関わる記事で、デビューから8ヶ月にして漂う大物感であったことや“ポスト百恵”の声もあったことが報じられました。

(ドコモdメニューニュース及びGoogleニュース内 夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・10月13日報道発表)
作詞家の売野雅勇氏は出来上がった詞に大きな文字で『不良½』と言うタイトルを付けてきた。コピーライター出身の売野氏だけに「明菜を際立たせるインパクトのあるタイトルだ」と自信を持っていた。だがそのタイトルに「いかがなものか」とクレームを付けたのがNHK放送センターであった。



結局、ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージックジャパン)はタイトルを『½の神話』に変更した。所謂、NHK放送センターへの忖度である。ワーナーの邦楽宣伝課で明菜のプロモーターを担当した富岡信夫氏は振り返る。

「タイトル変更は断腸の思いでした。ただ当時のワーナーは業界でも弱小の部類でしたからね。NHKの意見には、多少なりとも対応しなければならなかったところもあったことは確かです」

とは言え、既に明菜の注目度は「新人」の枠を超えていた。3枚目のシングル『セカンド・ラブ 』は発売直後から50万枚を突破し、昭和57(1982)年の年末のヒットチャートを独走。昭和58(1983)年に入り『½の神話』の発売日(2月23日)が近づくにつれ、プロモーション展開も悩みが大きかった。

「デビュー当時のプロモーションが嘘のようでした。いつの間にか、仕事を断るのが我々の仕事になっていました。『デビュー当時は無理を聞いてやったのに』なんて言われることもあり、正直板挟み状態でした。最もテレビは『ザ・ベストテン』(TBSテレビ系列)、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビジョン系列)、『ザ・トップテン』(日テレ系列)を中心に、デビュー当時からお世話になったテレビ東京の『ヤンヤン歌うスタジオ』を優先しました。今思うのは基本路線が決まっていたことだけは良かった」(富岡氏)

そんな中、新たにプロモーターとして加わったのが田中良明氏であった。田中氏は現在、沢里裕二の名で『処女刑事』シリーズの小説家として活躍しており、今月8日には『極道刑事─キングメーカーの野望─』を出版する人気作家だが、実は当時売野氏と同じ広告代理店からワーナーに転職してきた。それが明菜の担当となった。

「デビューして8ヶ月ぐらいでしたが、どこか近寄りがたい、どこか大物感と言うか威圧感を覚えました。富岡と僕の決定的な違いは、富岡は彼女を『明菜』と呼び捨てで話していましたが、僕からしたら『明菜様』、普通でも『明菜さん』。そんな雰囲気でした。つまり彼女は想像をはるかに上回るスピードでスターダムに上がり詰めてしまったのです」



昭和58(1983)年に入って『½の神話』の発売も迫っていたが、『セカンド・ラブ』が好調であったこともあり、「実際にはプロモーションも押す状態になっていた」と言う。田中氏は振り返る。

「最終的には2作品がクロスする形でのプロモーションでしたが、実際には発売記念イベントや全国ラジオキャンペーンでの楽曲露出、それにアイドル誌や芸能雑誌での露出。今思えば地味なプロモーションの積み重ねでした。最も当時はワイドショーの全盛期でしたが、彼女の場合、そこは一切利用せず、むしろ敵視していたところがありましたね」

ただ『½の神話』で強調したのは売野氏の歌詞であった。

「いい加減にしてー」の部分を山口百恵さんの「バカにしないでよ」に代わるフレーズとして、様々なメディアにアピールする戦略を立てたと言う。

「周囲からも“ポスト百恵”と言われ我々は意識していましたが、彼女は全く意識していませんでした。逆に言われると『自分は自分』と言う気持ちが強くなっていたと思います」

(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)