今晩は、所沢市田中則行です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースにて毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と軌跡、今週は4枚目シングル曲のタイトル『不良½』から『½の神話』に変更した件に於ける思わぬトラブルや曲目タイトル変更に対するNHK放送センターへの忖度が明らかになったことが報じられました。

(ドコモdメニューニュース及びGoogleニュース内 夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・10月6日報道発表)
昭和57(1983)年から翌 昭和58(1983)年にかけての年末年始の音楽業界は、新人の中森明菜の『セカンド・ラブ』が席巻した。

昭和57(1982)年5月1日に『スローモーション』でデビューした明菜は、新人の中でも6・7番手で注目されなかった。しかしセカンドシングル曲『少女A』が初のトップテン入りを果たし、続く『セカンド・ラブ』で初のチャート1位に輝くと状況が一転した。

「改めて思うのは、業界ウケしなかったことが良かったのかも知れません。ある意味で色に染まらなかった…アイドルでもアーティストでも業界ウケすると一般ウケしない。明菜の場合は典型的でした」(大手レコード店の元販売担当者)との声もあるが、戦略的な成功かも知れない。



4枚目のシングルが決まったのは年の瀬も押し迫った頃であった。作詞は『少女A』の売野雅勇氏が担当し、作曲はソロ活動前で作曲家としても駆け出しの大沢誉志幸さんが抜擢された。当時の大沢さんはバンド『クラウディ・スカイ』でデビューしたが、方向性の相違から僅か8ヶ月で解散。暫く作曲家として活動しており、沢田研二さんに提供した『おまえにチェックイン』がスマッシュヒットした。

「明菜はコンセプトありきだったので、無名に近くても才能のある作曲家を積極的に起用していました。言い方は悪いかも知れませんが主導権をどこが取るかってこともあったと思いますが…」

ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージックジャパン)の邦楽宣伝課で明菜のプロモートを担当してきた富岡信夫氏は振り返った。

上がってきた作品が『不良½』。インパクトのあるタイトルで「これはイケる!」とレコーディングに入った。発売日も83年第1弾として2月23日に決まった。ところが年が明けてすぐのこと。思わぬトラブルが起きた。タイトルに異論が出たのである。何とNHK放送センターから「待った!」が掛かっていた。富岡氏は苦笑いする。

「デビュー当時とは違い、明菜の注目度は急激に高まっていました。各局から『次の曲は?』と聞かれました。で、先ずNHKに持っていきました。音楽番組の担当者から『曲はいいけど、このタイトルだとNHK的に厳しい』と言われたのです。このタイトルでは明菜を出せないと…」

当時のNHK放送センターでは楽曲のタイトルや詞に厳しく、山口百恵さんの『プレイバックPart2』では「真っ赤なポルシェ」と言う歌詞を「真っ赤な車」と変えたことが大きな話題になった。

NHK放送センターからの“ご意見”にワーナーでは制作、宣伝、販売担当者が夜通しの会議になった。

「結局はタイトルを変えることで落ち着きました。制作担当者が売野さんとも相談して、タイトルは『½の神話』。早い話がNHKへの忖度でした。既にジャケットも完成していたんです。自分的にはカッコいいジャケットだったので、勿体なかったですね。しかもタイトル変更で味気のないジャケットになったのは今でも残念です」



この変更について売野氏は9月24日にNHK総合テレビで放映されたネーミングバラエティー番組『日本人のおなまえっ!』で「インパクトがなくなった。当時、インタビューでも(『½の神話』について)聞かれること全くなかった。つまりタイトルが悪かったんです」と断言。更に「(タイトルを変更しないで発売していたら)大変なことになっていたと思う。アレ、いいじゃん。ちょっと歌ってみようかなって言うことになっていた」とも。

NHK総合テレビの番組でNHK放送センターに嫌みを言っていたのかも知れない

(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)