今晩は、所沢市田中則行です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースで毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡、今週は賞レースよりレコードセールスに全力を注いだことと4枚目シングル曲『½の神話』のリリースに関する記事が報じられました。

(ドコモdメニューニュース及びGoogleニュース/ヤフーニュース内 夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・9月16日報道発表)
昭和57(1982)年のTBSテレビ系列『第24回 輝く!日本レコード大賞』に出場した明菜。新人賞入賞には至らなかったものの、彼女は82年を代表する歌手となり注目を浴びた。

候補者5枠はシブがき隊『100%…SOかもね!』、石川秀美『ゆ・れ・て湘南』、早見優『アンサーソングは哀愁』、堀ちえみ『待ちぼうけ』、松本伊代『センチメンタル・ジャーニー』が選ばれ、中森明菜は小泉今日子と共に入賞できなかった。最優秀新人賞はシブがき隊であった。



所属レコード会社であるワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージックジャパン)邦楽宣伝課で明菜の宣伝担当であった富岡信夫氏(現モモアンドグレープスカンパニー代表取締役)は「『レコード大賞』では悔しい思いをしたことは確かです。ただ周囲が言う程の大きなショックではなかった。確かに新人賞レースでは6、7番手でしたが強がりではありません。明菜の実績は誰もが分かっていたので『無理に取りに行く必要もない』と言う思いもあったのです。話した訳ではありませんが、候補者に入れなかったことで明菜自身も気にする雰囲気はありませんでしたし、そもそもこの時は『セカンド・ラブ』が絶好調だったので、逆に意気込みの方が大きかったように思いますね」と振り返る。

一方、「勿論ライバルは多かったのですが、半年が過ぎたらデビュー当時に感じていたような焦りはなかったですね。とにかく明菜の場合はいい作品を作り続けることはだけに専念すればいいと思っていましたから。賞レースで結果を出すことも重要ですが、明菜はレコードが売れたら宣伝費もアップしたので、我々はやはりレコード・セールスに全力を注いでいましたね」

『レコード大賞』の新人賞は逃したが、同じTBSテレビ系列の『ザ・ベストテン』で『セカンド・ラブ』は12月16日放送で1位になり「82年は明菜で終わり、83年は明菜で始まる結果になりました。そう言った意味では新人ながら明菜は82年を代表する歌手の一人になったと自負しています。勿論誰も想像していなかった…快挙だったと思います」(富岡氏)

因みにこの年の『日本レコード大賞』は視聴率で前年を4ポイント下回る31.3%(ビデオリサーチ調べ・関東地区)であった。そんな中、揉めていたのが『セカンド・ラブ』に続くシングルであった。ただ、明菜の路線はワーナーと所属事務所の間でもほぼ決まっていた。富岡氏は語る。

「言うまでもなく明菜の場合、歌唱力は勿論表現力も備わっていたので、あとは路線。要は方向性さえ間違わなければ絶対に息の永い歌手になると思っていました。それは上司も同じ考えで自身もありました。所謂ツッパリ路線とバラード路線、その一方に偏ってしまったら単なる企画物になってしまったでしょう」

そのような考えは、ワーナーで明菜の制作宣伝を統括していた寺林晁氏(現エイベックス・レーベル事業本部アドバイザー)にもあった。寺林氏は「コンセプトを持った作品作り」に拘ってきた。それだけに『少女A』に続く『セカンド・ラブ』が見事にハマったことで今後の路線に確信を持った。寺林氏は振り返る。

「当時、売野雅勇さんは新人の作詞家でしたが、センスもよく明菜に合った詞を書いてくるんですよ。それは来生えつこさんと来生たかおさんのコンビも同じだったので、このスタイルで其々が“3部作”のようなものがそこそこ交互にできないかと思ったのです。2つのパターンの作品を交互に出せれば、明菜のボーカル力を一気にクローズアップできる筈だと」

そして出来上がってきたのが、売野氏が作詞した『½の神話』であった

(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)