今晩は、所沢市田中則行です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースにて毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡、今週もまた新人賞レースに関連する記事で80年に引退した山口百恵さんの後を追う形で“ポスト百恵”を目指し話題となったことが報じられました。また80年代のスターカレンダー制作についても報告されています。

(ドコモdメニューニュース及びGoogleニュース内 夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・9月8日報道発表)
昭和57(1982)年も年末が近づき“新人賞レース”も佳境を迎えていた。デビュー時は知名度が低かった明菜だが、セカンドシングル『少女A』のロングセールス、それに続くサードシングル『セカンド・ラブ』の大ヒットで知名度と存在は一気に高まり、業界内でも「82年を代表する新人」として挙げられるまでになっていた。

「80年に劇的に引退した山口百恵の後、業界内では“ポスト百恵”が大きな話題でした。その最右翼が『抱きしめたい!ミス・ソニー』のキャッチフレーズで80年4月にデビューした松田聖子でしたが、明菜の存在が高まるにつれ風向きは変わり始め、どちらかと言うと明菜の方が百恵の後継的イメージで解釈されるようになっていきました。明菜の作品によるところが大きかった」(音楽関係者)

それでもファンの支持の高さだけで決まらないのが“賞レース”である。

「賞はもらうものではなく獲りにいくもの」

業界内にはそんなムードが漂っていた。前出の音楽関係者は振り返る。

「明菜サイドの雰囲気はそもそも最優秀新人賞を狙うなんて意識は全くなかった。“賞レース”は世間に存在を示すことが重要なのです。新人なら尚更です。先ずはノミネートされることが重要。明菜は周囲が思うほど賞レースに興味がなかった。と言うより賞レースに出ることで綺麗な衣装を作り、着ることができると思っていた程度かも知れません。明菜はデビュー当時から衣装には拘っていたようですからね」

しかし明菜の追い上げで「“賞レース”の流れが大きく変わった」との声もある。

「例えば、ラジオ日本(当時はラジオ関東)が主催し、新人の登竜門と言われた『横浜音楽祭』では最終的に明菜が『最優秀新人賞』を受賞しました。それに『全日本有線大賞』でも年間新人賞を獲得しましたからね」(大手プロ幹部)



業界内を最も驚かせたのが12月25日に中野区の中野サンプラザで開催されたFM東京系列の音楽賞『JFNリスナーズグランプリ』(平成5年以降は『JFNリスナーズアワード』で開催)であった。「ラジオ黄金時代」の音楽賞として知られたが、大手レコード店『新星堂』がバックについてリスナー投票で選ばれるので「その年の人気のバロメーターにもなっていました」(レコード会社関係者)

この音楽賞でグランプリを獲得したのが明菜であった。

「投票数は明菜が断トツでした。やはりリスナーからは圧倒的な支持を得ていたのです。振り返ると業界の思惑や盛り上がりがリスナーに伝わりにくくなり始めたのは明菜からではないかと思うこともあります」(前出の大手プロ幹部)



“賞レース”と言う「82年の総決算」で動き回る中、ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージックジャパン)の邦楽宣伝課で明菜のプロモートを担当した富岡信夫氏(現モモアンドグレープスカンパニー代表取締役)はなんと84年のカレンダーのプランニングに追われていた。

「カレンダーの制作は1年前以上から動かないと間に合わないのです。当時はカレンダーの売れ行きも人気の一つだったので、中身には神経を使いました。基本的に明菜はジャケットやポスターなどビジュアル面のカメラマンは1年目が野村誠一さん、2年目は渡辺達生さん、そして3年目はY.M.O.を撮り続けた三浦憲治さんを考えていました。3年目の三浦さんは事情があって清水清太郎さんに変わりましたが、イメージ的には野村さんが『静』だったので、渡辺さんには『動』の明菜が表現できないかと思い、カレンダーでは『動』の部分を表現して頂けるように提案しました」

「静」から「動」─当に明菜の躍動感を表すものであったのかも知れない

(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)