今晩は、のりちゃん本日二回目の更新です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースで毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡、今週は「シングルセールスは藤圭子並み快挙も…賞レースは6・7番手のまま」と題して演歌歌手・藤圭子さんのシングルセールス並みとその賞レース快挙が報じられました。
(ドコモdメニューニュース及びGoogleニュース内 夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・8月25日報道発表)
セカンドシングル『少女A』に続くサードシングル『セカンド・ラブ』は見事に成功した。
「狙ったって言うのは上手く行ったから、そう言われるようになっただけのこと。実際は方向性は二分していたし、ギリギリのところで判断してきた部分はありました。ただ、どう言った方向に行くにせよ、中森明菜と言う歌手は歌唱力が絶対的だったので、とにかく曲を優先したことが良かった。そう言う意味で作品が評価されたことが、結果的に明菜のアーティスト性にも結び付いたと思っています」
ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージックジャパン)の邦楽宣伝課で明菜のプロモートを担当してきた富岡信夫氏は振り返る。その上で「今、改めて思うのはウチの会社は業界的には弱かったのですが、事務所も音楽は明菜が初めてだったので、音楽の制作面は全て任せてくれたことも良かったのでしょう。上司も事務所に意見してくれたので、作品に対して事務所からは何か言われたことはなかったと記憶しています。我々はレコードを売ることが仕事ですが、作品に何も言えず宣伝費だけ出すのでは寂しいですからね。いい時代だったし、或いは時代が明菜を生んだのかも知れません」
『少女A』は昭和57年11月22日付のオリコンチャートで12位となりベストテンから外れたが、TBSテレビ系列の人気音楽番組『ザ・ベストテン』では11月25日放送分までランク入りした。一方、『セカンド・ラブ』も11月22日付のチャートで2位にランクインした。この見事なまでのスイッチは業界内でも話題になったのは言うまでもない。音楽関係者は「オリコンのデータを見ると、明菜のチャートは宇多田ヒカルの母・藤圭子さん以来のものだと言えます」と前置きした上で、その快挙を説明する。
「藤さんは69年に『新宿の女』でデビューしたのですが、70年に出した2枚目のシングル『女のブルース』と続く『圭子の夢は夜ひらく』の大ヒットで時の人となりました。と言うのも『女のブルース』は発売後8週連続1位となり、その後『夜ひらく』が入れ替わる形で1位になり、2週に渡って1、2位を独占した。順位に違いがありますが明菜も見事な入れ替りでした。時代背景もあるし藤さんは演歌ですが、アイドル歌手としては快挙でしたね」
1970年を代表する歌手は名実ともに藤圭子さんであったが、それから12年─
「データの上では82年を代表する歌手は、やはり中森明菜だったと言ってもいいと思いますね。しかも藤さんと共通するのは新人歌手だったと言うことです」(前出の音楽関係者)
シングルセールスで注目される中で富岡氏はこの年の「新人賞レース」に奮闘する一方、翌年のカレンダー製作も任され慌ただしく動くことになった。
「明菜自身もデビュー以来の状況を彼女なりに見てきていたので、賞レースには巷で言われる程関心はなかったと思います。ただシングルが好調で周りが盛り上がっていましたから、我々も当然、最優秀新人賞を目指しますよ。全く期待せずに出場した『新宿音楽祭』(文化放送主催)で『専門審査員奨励特別賞』を受賞した時は明菜も本当に喜んでいたんです。期待していなかっただけに、賞を貰えるなんて思ってもなかったのでしょう。自分の名前を呼ばれた時は本当にビックリした表情でした。やはりアーティストとして認められたことが、どんな賞よりも嬉しかったようです。それにあの喜ぶ顔を見たら、少しでも可能性があるなら新人のトップを獲りたいと思いますよね」
シングルセールスではその年のトップに立った明菜だが、賞レースではやはり6番手、7番手のままであった
(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)