お早う御座います、所沢市田中則行です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースで毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡、今週は「82年組で群を抜いてきた歌唱力と力量!影響大きかった『ザ・ベストテン』出演、デビュー半年で“明菜時代”幕開け」と題してセカンドシングル『少女A』とサードシングル『セカンド・ラブ』の売れ行きとベストテン入り、アルバム『バリエーション〈変奏曲〉』のランキングと其々の裏事情が報じられました。

(ドコモdメニューニュース及びGoogleニュース内 夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・8月18日報道発表)
80年代のアイドル中で82年デビューは“花の82年組”として不滅の人気を誇っているが、当時の明菜の位置と言えば同期の新人の中でも6・7番手。「あらゆる部分で“番外”的な扱われ方だったと思う」とプロダクション関係者も振り返る。

だがオリコンチャート初登場40位でスタートしたシングル『少女A』は11週目に5位まで上昇。セカンドアルバム『バリエーション〈変奏曲〉』に至っては初登場1位の快挙を成し遂げ、気付けば“82年組”のトップに立っていた。

明菜に気を止めてこなかった音楽関係者からも「快挙と言う言葉が相応しい大物アイドル」と評する声まで出てきた。

「歌唱力も然ることながら、歌の主人公になり切る力量が他のアイドルとは比較にならない、群を抜いてきた」




明菜が所属したワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージックジャパン)の邦楽宣伝課で明菜のプロモートを担当した富岡信夫氏はこう語る。

「宣伝費1億円をかけても売れない歌手は売れません。しかし明菜の場合は1億円の宣伝費以上の力を発揮していた。正に時代が生んだアイドルでしたね」

当時、アイドルのシングル発売ローテーションは3ヶ月サイクルであった。だが明菜は『少女A』発売から丁度3ヶ月目の10月27日にアルバムを発売。結果的にこれが功を奏した。

しかも明菜の人気に拍車を掛けたのは『ザ・ベストテン』(TBSテレビ系列)と『ザ・トップテン』(日テレ系列)等のランキング歌番組であった。

「デビュー当時の明菜は大抵の音楽番組に出演できませんでしたが、ランキング番組はシングルの売れ行きでしたから。。明菜の場合、やはり地道に続けてきた地方キャンペーンが人気の底力になりました。私は『少女A』の発売前後、一時的に担当から外れましたが、レコード店の反応は肌で感じていました。その後9月に担当に戻った時、社内はシングルのバックオーダーでてんやわんやでしたね。その結果『ザ・ベストテン』に9位に初登場し、アルバム発売の翌日に放送された回では最高位3位に上昇していました。アルバムのプロモーションでこれ以上のものはなかった。お陰でチャートは初登場1位で70万枚を超えるセールスになりました。しかし僅か半年間でここまで成長するとは夢にも思いませんでした」

富岡氏は当時のことを記した手帳を1頁1頁捲りながらそう振り返る。



サードシングル『セカンド・ラブ』はアルバムから2週間後の11月10日に発売された。しかし新曲が発売されても『少女A』の快進撃は続いた。『ザ・ベストテン』では11月11日放送でも6位に、11月25日放送までランク入りした。

一方、『セカンド・ラブ』は11月22日付のオリコンチャートで2位に初登場。その翌週、遂に1位となった。正に“快挙”と言う言葉が相応しかった。

「セカンドシングルの選曲では紆余曲折ありましたが、やはり楽曲を優先し原点に帰って『セカンド・ラブ』に拘って間違いなかったと思います。勿論『少女A』と同じタイプの『キャンセル!』がシングルでも売れたと思います。でも、その後は企画モノ路線、或いはツッパリ路線と…違う方向に行っていたかも知れません。明菜自身もその事は分かっていましたね」と富岡氏。

因みに『ザ・ベストテン』では12月2日放送で『少女A』と入れ替わって『セカンド・ラブ』が6位にベストテン入を果たし、更に12月16日放送分で1位を獲得した。結果、82年の『ザ・ベストテン』は明菜で幕を下ろし、83年は明菜で幕を開けると言う開けると言う、名実と共に「明菜時代」の幕開けとなった

(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)