今晩は、所沢市田中則行です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースで毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡。今週もセカンドシングル曲目『少女A』に関わる記事で、同シングル曲目のヒットで3枚目シングルが大モメになってしまったことやツッパリ路線とその流れについてリポートします。更にサードシングル曲目『セカンド・ラブ』に決定されたことについても報告されました

(ドコモdメニューニュース及びGoogleニュース内 夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・7月28日報道発表)
オリコンのシングルチャートで初登場40位、僅か5410枚の売り上げ枚数でスタート(昭和57年8月9日付け)した中森明菜セカンドシングル『少女A』は発売2ヶ月、9週目の10月4日付で9位にランクインした。更に10月18日付では5位へとランクアップ。売り上げ枚数は70万枚を突破した。正に“遅咲き”の大ヒットである。



ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージックジャパン)の邦楽宣伝課で明菜のポートレートを担当していた富岡信夫氏(現モモアンドグレープスカンパニー代表取締役)は語る。

「デビュー曲『スローモーション』は16万枚程でしたからね。ただ、それでも来る(売れる)と言う信念は持っていましたよ。しかし…まさかここまでとは思っていませんでしたが。今でこそ“花の82年組”なんて言われますが、当時は売り込みに行っても真面に相手されなかったですから。やはり明菜の頑張りだと思います。最初は『歌いたくない』と言いましたが、いざとなったらあれだけの表現力で歌い切るのですから、プロ意識は新人でもピカ一。表現者として、ボーカリストとしての実力は備わっていたのです。最も『少女A』が売れて周りが盛り上がっているにも関わらず明菜は平然と『スローモーション』の方が好きとか言ってましたが。とにかく自分の気持ちには正直だったんです」

新人とは言え、この頃からアイドルの枠には収まらない“ボーカリスト中森明菜”としての強烈な自負があったに違いない。それが『少女A』で開花されつつあった。その結果、音楽業界でも明菜は山口百恵さんの後継的イメージで解釈されるようになっていた。

だが『少女A』のヒットで3枚目のシングルが大モメになった。

当初、サードシングルは『スローモーション』の来生えつこと来生たかおコンビが書き下ろした『セカンド・ラブ』で決まりかけていた。ところが担当ディレクターが「この流れを確立したい」「次も『少女A』の売野雅勇の曲で行きたい」とアルバムの収録曲『キャンセル』を提案してきた。

この提案に社内の流れも『スローモーション』路線の『セカンド・ラブ』には否定的な声が出た。「『少女A』が売れているのに、この流れを止める理由はない」と言う営業担当者もいた。富岡氏は頭を抱えた。

「流れは完全に『キャンセル』に傾いていました。ただ、私は誰が何を言おうとサードシングルは『セカンド・ラブ』で行くべきだと思っていました。勿論『キャンセル』もシングルとして全く問題のない作品でしたが、歌唱力を前面に出したアイドルに育て上げたいと言うデビュー前からの路線から考えたら絶対にあり得ないと思ったのです。とは言え、私は宣伝担当で選曲はディレクターの仕事です。流れが『キャンセル』になる中で、何れだけ訴えてもムードは変えられませんでした」



富岡氏は思い切って明菜の制作宣伝を統括していた寺林晁氏(現エイベックスエンターテイメント レーベル事業本部アドバイザー)に訴えることにした。

「とにかく『セカンド・ラブ』にしたいと言う一心でした。で、寺林さんに言ったんです。キングレコードさんには申し訳ないのですが、『キャンセル』にしたらツッパリ路線でいく三原順子(現三原じゅん子)と変わらなくなってしまうと。すると、『同じ意見だ』と言ってくれて、更に『明菜は幅のあるボーカリストとして育てるべきだと考えている』と一宣伝マンの私の意見を聞き入れてくれて、その場で制作現場に指示してくれたのです」



『少女A』に続くシングル曲目が『セカンド・ラブ』に決まった瞬間であった

(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)