今晩は、所沢市田中則行です。夕刊フジZAKZAK芸能ニュースで毎週掲載中の歌姫伝説 中森明菜さんの軌跡と奇跡。今週もセカンドシングル曲目『少女A』に関する記事で、今週は「アーティストとして評価され歓喜!業界的には“ノーマーク”だった?」と題して同シングル曲目の風向きとその変化、そして新人賞と専門審査員奨励賞等の受賞についてリポートしていきます。

(ドコモdメニューニュース及びGoogle内 夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・7月21日報道発表)
デビューして4ヶ月を経過した昭和57年9月。TBSテレビ系列『ザ・ベストテン』とフジテレビジョン系列『夜のヒットスタジオ』と言う当時圧倒的な人気を誇った音楽番組に立て続けに出演し、セカンドシングル曲『少女A』の風向きは大きく変わった。



出演直後のオリコンのシングルチャートは昭和57年9月27日付で前週21位から14位に上昇、更に10月4日付では9位にランクされ、念願のベストテン入りを果たした。当時を知る音楽関係者は振り返る。

「所謂“花の82年組”と言われる新人でも明菜は6、7番手で、業界的には気にも留められない。ある意味ノーマークでした。そもそもテレビ出演にしても、同期デビューの歌手がメインの音楽番組に次々に出演してデビュー曲を歌う中、明菜のデビュー曲は殆ど歌われなかったと言ってもいい。にも拘らず、いつの間にかファンを全国に広げていたことが業界内の大きな驚きになりました。そもそも新人のシングルがベストテン入りするのは松本伊代、シブがき隊に続いての快挙でした。しかも発売から2ヶ月も経ってのランクインは異例中の異例でした。急に問い合わせも殺到したと思いますね。当時、事務所だった研音は音楽では全くの素人でしたし、ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージックジャパン)に問い合わせてもスケジュールがなかなか出てこなくて…それでも(明菜を)軽く見ていた出版社にはぼやく声もあったようです。何れにしても音楽番組でも『ザ・ベストテン』はラジオのテレビ版のようなもので、ランクインさえしたら毎週出演することができたので、明菜にとっては大きなチャンスでした。とにかく高視聴率の音楽番組でアーティスト性をアピールできたことは確かです。彼女の場合、楽曲は勿論アーティストとしてもインパクトもありましたからね」



『ザ・ベストテン』では9月16日の初登場以降、出演が“常連化”していった。中でも2回目の出演。東京都・麻布のアオイスタジオから中継では、好きな仕事に「レコーディング」と「サイン会」を挙げた。一方で仕事について問われると「質問で『休みはあるんですか』と聞かれるのが一番嫌でした」と答え「あまり休みがなかったのですが、(それを言ったら)何か威張っているようで…」と説明するシーンもあった。



そんな明菜が一番喜んだことがあった。昭和57年10月7日に開催された「第12回銀座音楽祭」(ニッポン放送主催)で「専門審査員奨励賞」を受賞したことである。ワーナーの邦楽宣伝部で明菜のプロモーションを担当した富岡信夫氏(現モモアンドグレープ代表取締役)は振り返る。

「明菜自身はまさか自分が受賞するとは思っていなかったんです。なので授賞式で自分の名前が呼ばれた時は本当に嬉しかったようですね。と言うよりビックリした感じでした。勿論、その前に九州の『KBC新人歌謡音楽祭』でも『少女A』が優秀新人賞を受賞しましたが、『銀座音楽祭』では東京での受賞。大きな賞ではありませんでしたが、明菜本人は楽曲以上にアーティストとして評価されたことが一番嬉しかったようです。明菜自身も芸能界の事情は薄々分かっていたと思うし、事務所やレコード会社が弱かったことだって理解していた筈ですから、正直賞レースは無縁で対して興味もなかったと思います。それが『専門審査員奨励賞』でしたから…喜びが表情にも表れていました」

因みにこの日の授賞式後のパーティー会場から『ザ・ベストテン』が中継され、明菜は7位にランクアップした『少女A』を熱唱した

(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)