今晩は、所沢市田中則行です。本日のGoogleニュース内の夕刊フジZAKZAK芸能ニュースで『歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡~存在感高めた歌唱力と情感表現!メディアに“出ない”ことで逆に注目~』が配信されました。今回もまたセカンドシングル曲目『少女A』に関わる記事です。のりちゃんのブログで明菜さんの過去の記事を配信するのは今回6回目となります。
(ドコモdメニューニュース及びGoogleニュース内 夕刊フジZAKZAK芸能ニュース・23日報道発表)
中森明菜セカンドシングル曲『少女A』はデビュー曲から3ヶ月後の昭和57(1982)年7月28日にリリースされた。デビュー曲目『スローモーション』とは一転、10代少女の情感をマイナー調8ビートに乗せ斜に構えたツッパった雰囲気で歌う明菜が一気に注目された。明菜の魅力は歌唱力と同時に優れた情感表現であったことは言うまでもない。
注目度とは裏腹に『少女A』は8月9日付のオリコンのシングルチャートでは初登場40位と思ったほどの動きを見せなかった。
「確かにファーストアルバムのセールスは良かったことは事実ですが、やはり新人の中での扱われ方は5~6番手だったのかも知れません」と前置きした上で、その裏側に「芸能界は事務所とレコード会社の力関係で勝負が決まってしまった部分もありましたからね。他の新人と比較しても芸能誌への掲載が少なかったし、テレビの音楽番組も大きな番組には出演できなかった。これがセールスでのマイナス点になったのかも知れません。しかし、それが逆に効果的に働いたところもあった。とにかく彼女の場合は一般ユーザーからの評価が圧倒的に高かったんです。明菜がメディアに登場しない芸能界の事情に疑問を感じるユーザーが沢山出てきてきたのです。実際にテレビよりもラジオや有線と言ったメディアでファンになった人も多かったようですしね。今で言う『業界ウケ』とか『一般ウケ』なんて明菜から生まれた言葉だったのかも知れません」 (当時を知るアイドル通の雑誌編集者)
実際に『少女A』が出た頃から「中森明菜って知っている?」と言う10代や20代の反応が増えたと言われている。
新人アイドルにとって芸能誌やテレビの音楽番組に出演することは重要なプロモーションであるが、明菜の場合は「出られなかった」ことが逆に注目され結果的に「見てみたい」「聞きたい」と言う飢餓感を一般ユーザーに与えたのかも知れない。その明菜の魅力や存在感を高めたのは「歌が上手い」「生意気そう」「ツッパってる」、そして「可愛い」と言うキーワードであった。
『少女A』も最初は「歌いたくない」と言った明菜も、いつの間にか「意欲」に変わっていた。音楽関係者が語る。
「彼女は完璧主義者。歌う以上、中途半端な気持ちはなかった筈。ただ情感表現が豊か過ぎるのか、完璧さを追求し過ぎるためか、そう言った精神状態が歌に反映してしまい、ちょっと不安定なパフォーマンスになって現れたこともあったように思います。しかし、そんな部分も明菜は魅力に変えてしまった」
明菜は自分の性格について語っている。
「私は凄く『褒められたがり屋』なんです。怒られたり注意されたりすると、褒められるまで頑張るような子だったのです。だから、(小さい頃から母は)私には歌を注意すれば、いくらでも上手くなると。全部直してくるだろうと踏んでいたのだと思います。歌に限らず、全てにおいてそうでした。人に褒められたい。認めてもらいたいと思うようになっていったんです」
デビュー当時の明菜は先ずは「母親に褒めてもらいたかった」と言う。最も、その母親も「ステージママ」ではなく、仕事は事務所やレコード会社に一切任せていた。それでも不安だったようで「レコード会社によく訪ねてきては、明菜の様子を聞いてきました。恐らく小さい頃から体が弱かったので心配だったのでしょう」 (レコード会社関係者)
明菜のストイックな幼少からの性格が功を奏して『少女A』は徐々に順位と売り上げを伸ばし、2週目(8月16日付)には38位、3週目(8月23日付)には30位と着実にランクアップ。こうした動きに業界内では次第に山口百恵さんの後継者イメージで解釈する声まで挙がり始めていた
(芸能ジャーナリスト 渡邉裕二・談)