今晩は、所沢市田中則行です。4月に突入しました。先月末、Google内夕刊フジZAKZAK芸能ニュースで80年代の歌謡界を大ブレイクした中森明菜さんの軌跡と奇跡が取り上げられました。
(Google内夕刊フジ ZAKZAK芸能ニュース・31日報道発表)
明菜さんの試練は、あるいはここから始まったと言っていいかも知れない。
デビュー曲『スローモーション』のオリコン初登場58位(昭和57年5月10日付)と言う結果はワーナー・パイオニア(現在のワーナーミュージックジャパン)の宣伝、営業担当者に大きな衝撃を与えた。



全国のレコード店の販売担当者の反応も高まりつつあっただけに「ベストテンは無理にしても、せめて20位は入ると思っていたが…」との現場の声もあった。「正直なところ、せめて左ページ(オリコン業界誌『オリジナルコンフィデンス』ではチャート掲載は見開きで、50位以内は左ページに掲載されていた)に載ってほしかった思いはありました。メディアでの盛り上がりがなかったのが痛かったかも知れませんね。アイドル誌は何とか頑張っていたと思いますが、テレビの音楽番組や一般芸能誌は苦戦していました。どうしても業界内での評価は新人アイドルの中で6、7番目でしたし、芸能誌は現場も含め編集担当者のノリも明菜には今一だったと聞いています。ただ、メディアの反応に対し、ファンの盛り上がりは新人の中でもトップクラスの高さだったと思います。とは言っても明菜の魅力を伝えきれなかったことがストレスになっていましたね」と当時、ワーナー・パイオニアの地方営業所でレコード店を回っていた営業担当者。

例えば当時、最も人気の高かった『夜のヒットスタジオ』(フジテレビジョン系列)でも、小泉今日子はデビュー翌週の3月22日に『私の16才』で出演、更に堀ちえみ、早見優、石川秀美らもデビュー直後での出演となった。この他でも『虹いろの瞳』の新井薫子や『駆けてきた処女』の三田寛子、『ときめきTouch Me』の渡辺めぐみらもデビューとほぼ同時に出演していたが、明菜はデビュー曲での出演はなかった。業界関係者が重い口を開き語る。

「やはりメディアでの露出度が低かったかと思います。他の新人に比べても認知度が低かったことは確かでしたから。それにあの番組(『夜のヒットスタジオ』の場合)はチャート30位以内と言う基準があったそうです。初登場58位は番組としては厳しかったも知れません。そう考えると当時の研音は音楽分野では力がなかったし、ワーナー自体も宣伝力が弱かったですからゴリ押しできなかったかも知れません。これは業界的な話ですがワーナーで明菜さんの宣伝を統括していた寺林さん(晁=現・エイベックスエンターテイメント レーベル事業本部アドバイザー)が、明菜の売り方には異常な程頑固者だったそうで、しかも『夜ヒット』のプロデューサーとは犬猿の仲だったんです。それで出演に祈り合いがつかなかったと言う裏事情もあったかも知れません」



それが明菜にとってプラスだったのかマイナスだったのかは分からないが、一方で明菜にとって一つの「神話」「伝説」に変わったことも確かだ。ワーナーで明菜の宣伝を担当していた富岡信夫氏(現モモアンドグレープカンパニー代表取締役)は言う。「チャートが低かったとか、番組のプロデューサーとの関係が悪かったことも事実ですし、多少なりとも影響があったのは確かだと思います。ただ最大の要因は我々に出演させるだけの力がなかったことだと思います。今になって思うのは“82年組”と言われるアイドルで、結果的にデビュー曲をあの番組で披露できなかったのは後悔することではあります」

だがその後、ファンの盛り上がりもあって『スローモーション』は発売2ヶ月半後の7月26日付で30位に異例のジャンプ・アップ。2週連続で30位をキープした。しかも結果的に39週間に渡って100位圏内に留まるなど、新人の中で最も注目されていった [芸能ジャーナリスト・渡邉裕二氏 談]





■中森明菜 (なかもりあきな)

本名同じ。昭和40年7月13日生まれの54歳、東京都清瀬市出身。昭和56年に日テレ系列の芸能オーディション『スター誕生!』で合格し、翌昭和57年5月1日にシングル曲『スローモーション』でデビュー。『少女A』『北ウイング』『禁句』『飾りじゃないのよ涙は』『DESIRE―情熱―』等ヒット曲目多数。NHK総合テレビ紅白歌合戦には8回出場した。昭和60~61年には2年連続で日本レコード大賞を受賞している





☆のりちゃんからご報告☆
先月半ばの通院で骨折箇所であった右肩肋骨を固定させる金属板が折れ曲がっているとの診断結果から2日より入院し手術受診することになりました。今回の入院に伴いのりちゃんのブログ更新を暫く2~3日前後休止しますので、予めご了承・ご理解の程宜しくお願い申し上げます