こんばんは、所沢市田中則行です。のりちゃんの川越市方面散策の五回目です。本日は喜多院本堂近くの慈眼堂をご紹介します。



■慈眼堂

天海僧正は寛永20年(1643)10月2日、寛永寺において入寂し、慈眼大師の諡号を送られた。そして三年後の正保2年(1645)には徳川家光の命によって御影堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置されたのがこの慈眼堂である。一命開山堂とも呼び、桁行三間(5.45m)、梁間三間で、背面一間通庇付の単層宝形造、本瓦葺となっている。宝形造は、四方の隅棟が一ヶ所に集まっている屋根のことで、隅棟の会するところに露盤があり、その上に宝珠が飾られている。







■暦応の古碑

暦応の古碑として指定されているが、その実は「暦応□□□□□月十五日」の銘のある板石塔婆で、上部に弥陀の種子キリークを刻し下半部に52名にのぼる喜多院(無量寿慈)の歴代の住職の名と見られる者を刻している。喜多院の歴代の住職の名を知る資料は他になく、この銘文が重要な意味を持つところから、県の史跡として指定になったものである。梵字の真下中央に「僧都長海現在」とあり、暦応(南北朝時代初期)の頃の住職であったことがわかる。






■延文の板碑

暦応の板碑と並んで立っている延文三年の板碑は、高さ276cm、最大幅69.4m、厚さ9cmで川越市最大の板碑である。暦応の板碑と同様に上部に種子キリークがあり、その基に、僧:1、法師:2、沙弥:32、尼:21、聖霊:4の合計60名が刻まれており「一結諸衆/敬白」とあり、文字通り結衆板碑である。聖霊の4名は喜捨を募ってから板碑に刻むまでに故人になった人と思われる。従って完成までに少なからず歳月を費やしたことが考えられる。暦応の板碑が喜多院の歴代の住職の名を記したのに対し、この板碑はその殆どが沙弥と尼で、共に僧階は最も低く、僧、法師が導師となって、在俗の人々が結集したことがわかる板碑である。





次回はどろぼう橋の由来をご紹介します