一般的な 無我無欲と 区別するために あえて

こう書いてみました


元々は 無我無欲という言葉から

私も始まりましたが


途中から、なぜか 『無我欲』

そちらの言葉の方が 浮かんできて

 しっくり来たので その言葉を使ったり

していました


基本的には無我無欲と 同じだと思います


私にとっての、無我無欲というのは

 自分の心が 明らかに 違うゾーンと言いますか 、違う段階に入ります


例えるならば 脳のアルファー波と 

べータ波、シータ波、 そういった 

脳波の違いのように 

それによって明らかに、何か自分や自分の周りに変化が起きる、そういう類のものです


人間には基本的には、自我があってが

欲というものがあります


ただそれを捨てれば、

無我無欲になれるかと言えば 

それはどこか 一般的な瞑想や座禅で使われる

無念無想のようなものになってしまうかな

と思います


普段 いろんなことを考えて

いろんなことを思っているのに 

瞑想する時だけ、何も考えない

何も思わないようにする


これだと本当に、

にわか仕込みで 終わってしまいます


 普段自分が考えてることや

思ってること、それがその日だけ完全に消えるというのは、基本的にはないでしょう 


自分が日常、生み出している 

頭や心によってのエネルギーというものがあります

それが毎日24時間の中でも、

色々な 作用をしている

エネルギーを生み出している

それが1年を通じて、

そして今までの人生を通して

過去から今日までのものが在る

ということ


 それを何も振り返ることなく

 今ただ無念無想になったところで

今までの自分が生み出したエネルギー

その流れだったり、勢いだったり

積み重ねだったりというものがあります


 その影響を絶対的に無視することができない

、受けてしまう ということです

だからにわか仕込みで、無念夢想したとしてもほとんど意味がないということです


 何かしらの手応えを つかむようなことが

できたかもしれませんが、

しかしそれは 文字通り、にわかじこみであって本当に何か、自分が根本から変わる

自分が根本から高い段階に至るということではありません 


それは その無念無想が終わった時に

自分が日常生活に戻った時に

やはりいつもの考え方や心の在り方に

戻ってしまうから


自分の根本のその部分が、

基本的には前と何ら変わっていないということ


だから当然、自分が そこから生み出すエネルギー、自分が作り出す未来というものは

ほとんど変わっていないということです


 そういう意味で、その時の無念無想が

あまり意味がないというのは

そういうところに繋がっています