みちとの関係を終わりにしました。


そう、誕生日の日、やっとわかった。

わかってしまった。

みちが、私の好きな人ではないことが。



私は、みちを誤解していたのです。

本当のみちを見誤っていた。

でも、このことは私の周りの人がさんざん言っていたし、

みち自身も最初の頃言っていた。


みちがとんでもなく暗くて冷たい部分を持っていると。


私は、それを単なるかっこつけで、表面的なものにすぎないと思い込んでいたんだ。


でも、それは私が思っていた以上に、本質的で気分の悪いものだった。


それが私には、とても受け入れられなくて、

みちとの縁を切ることに決めた。


それがわかった時には、みちという人間がとことん許せなくて、

あんなに愛しく想い、優しく触れたいと思っていたみちの顔を、

思い切り殴りつけたくなる衝動に駆られ、

事情を知る友人になんとかなだめてもらうくらいだった。


でも、今は、もうそんな怒りはない。

ただ、かわいそうに思う。

誰も彼女を変えることはできないのだろう。





みちと私とはちがうシステムで動いている。


人は、誰かと関係を築こうとする時、

何らかのポジティブなアクションをする時には、

相手の立場にたって、自分だったらどうしてもらうのが嬉しいのか、

相手のためには、自分がどうしてあげることが一番良いのか、

考えて接するだろう。


こんなことは私には当たり前すぎて、

この暗黙ルールではないルールで人と関わろうとする人がいるなんて思いもしなかった。


そりゃ、打算で行動する時もある。

でも、それには許容範囲があるはずだ。

許容範囲外で打算でのみ人と接することは相手の信頼を裏切るようなことだ。

だから、その打算が見えてしまう人は、他人から信頼を得られない。


しかし、それがみちだった。

そして、確かに実際彼女は人に信頼されていない。

友達はたくさんいるのにだ。


彼女のルールには、相手の立場に立って…とか、相手のためには…とかいう考えが、実はなかった。

彼女が誰かに近寄ったり、話をしたり聞いたり、親切をしたりする理由、

それは全て自分の自尊心を満足させるため。

彼女の行動は全てパフォーマンスに過ぎなかったのだ。

実は相手のことなど微塵も考えていない。

他人は、自分の自尊心を満足させるための道具としか思っていないのだ。


でも、みちと一定の距離をもって接する人にはそんなことは知る由もない。

なぜなら、人は、相手の自分に対する行動から、相手の自分に対する気持ちを推し量るからだ。

誰かに親切にされれば、その人には自分に対する真心があると、普通の人は受け取るだろう。

みちのパフーマンスから、人はみちのサービス精神を推し量るだろうが、

実はその内実は何もない。

ただ、ひたすら自分のためなのだ。

そして、みちは、人が自分のパフォーマンスに反応して、みちに感謝したり好感を持ったりするリアクションをみて、自分の自尊心を満足させる。

そして、うまくやれたとほくそ笑む。


だから、逆に人の善意や真心をみちは受け取れないのだ。

人の行動には自分に対する善意や真心がこもっていることを本当の意味で理解していない。

その行動の意味をちゃんとそれなりの重さをもって受け取れない。

だから、みちに心を砕いて接する人は虚しくなってしまう。

でも、みちからすれば、自分が人にそうしていない以上、

人が自分に対してしてくれることの意味を推し量ることなんてできないのだ。



このことにやっと気が付いた時、

私は、みちに対して人としてものすごい嫌悪感に襲われた。

なぜなら、人を道具としてしか思っていないから。


でも、このみちの中の暗黙のルールを理解してから、

みちのこれまでの行動が、まるでパズルのピースが埋まるように、

つじつまが合って理解できた。


そして、私が尊敬していた部分も軽蔑へと変わってしまった。


でも、みちは初めからそういう人で、

見えていなかったのは私。

みちは付き合っていた頃から何も変わっておらず、

私はみちの本質を見誤ったまま愛してしまった。


そして、みちのそんな悲しい部分を愛しきれなかった。



で、結局こんな結末を迎えてしまったわけです。