凱風快晴
「誰が終わりと言ったのだ」 師の言の葉に池田善次郎は耳を疑った。「何を驚いているのだ。儂は今、甲州側から冨嶽を登ってきたのだ。故に次は駿州側から登るのは至極真当な言い分であろう」 こうなったら梃子でも聞かない。葛飾北斎、その人だ。このみすぼらしい身なりをした翁は相当な頑固者である。富士山頂にある浅間大社奥宮で二人は言い争っている。隣では白装束に御朱印をいただいている人もそれに驚いているようだった。善次郎はそれでも北斎に食い下がる。「もう江戸に帰りましょうよ、先生」 弟子の言の葉に北斎は耳を疑った。「ただでさえ御坂峠で寄り道するから登るまで時がたっているんですよ」「何を言う。故に水面に映る冨嶽が拝めたのだぞ」「確かにあの逆さに映る富士は綺麗でしたよ。でも時を掛け過ぎですよ」「駿州側から登るといったら登るのだ。儂はかの小林平八郎の子孫ぞ。故に二言はない」 北斎は御来迎をさっと拝んで火口に賽銭を投げ入れた後、すぐさま下りに入る。「もう下るのですか。先生、少しはあの岩室で休んでいきませんか」 善次郎は横たわっていたり疲れている人達でいっぱいの烏帽子岩を指差しながら、渋々北斎の後を追いかける。岩場にしがみつくように歩いているお鉢巡りの人達や金剛杖に縋りつくように座り込んでいる人達を尻目に二人は富士を下っていく。 そして北斎と善次郎は鎌倉往還に入り、駿州へと歩を進める。風は南からそよいでいて、北斎の足取りはより一層軽やかに、善次郎の足取りはより一層重くなっている。「何故お主は儂より若いのに遅いのだ。癪に障る」 善次郎は疲れ果て過ぎて言い返す事もできない。 もうすぐ籠坂峠を登り切ろうかという所で前方に大きな杉が聳え立っている。すると旅人三人が両手を広げてその大木に連なり出した。どうやら大木の太さを計ろうとしているらしい。「善次郎、儂等も加勢するぞ」 師の言の葉に善次郎は耳を疑った。「微力ながら助太刀致す」 北斎はその旅人と手を繋ぎ、大木にもたれかかる。「何をもたもたしておる。お主もさっさと来い」 善次郎も渋々北斎の後を追いかけ大木にもたれかかる。「どうだ善次郎、連なったか」 北斎の問い掛けに善次郎は届かないと答えた。「五人でも届かぬか。よくぞここまで育ったものよ」 北斎は感心し、おもむろに筆をとる。善次郎はここぞとばかりに竹筒の水を飲み、大木の傍らに座り込み、できる限り疲れをとろうとする。「よし、行くぞ」 北斎は下絵を描き終わえ、すぐさま歩き出す。「ええっ、もう少し休んでいきましょうよ」 北斎は善次郎に構う事なく先を行く。善次郎は重い腰を上げ、渋々後を追いかける。 日が傾き、夕暮れもまもなく終わろうかとする頃、善次郎は気づく。もうそろそろ御殿場に着いていないと今晩中に三島宿に辿り着けない。善次郎は一つ恐ろしい事が頭に浮かぶ。「先生、私共は道に迷いましたか」「迷ってはおらぬ」 北斎は後ろを振り返らず前へ突き進んでいる。「いいえ迷ってますよ。ほら、もうここは道ではないですよ」「道だ」 北斎は後ろを振り返らず道なき道を突き進んでいる。「そうだ。先刻の大木は籠坂峠ではなく笹子峠の矢立の杉だったのではないでしょうか。なれば私共は鎌倉往還なぞ端から通ってなかったのではないでしょうか。『いざ鎌倉』。ああ、なんと虚しい響きでしょうか」「うるさい。黙って進め」 その時、雷鳴が轟いた。善次郎は音の元を探す。するとどうだ。富士の裾野は真っ暗になっており、その中で稲光が閃いた。「先生、見て下さい。富士の裾野では夕立ですよ。頂の方は晴れているのに。ここも降ってくるのでしょうか。というかここはいずこなのでしょうか。先生、もう早く帰りましょうよ」「ならぬ。駿州から冨嶽を登るまではな。斯様に騒ぐなら、お主帰ってもよいぞ」 師の言の葉に善次郎は耳を疑った。「ここで帰れとおっしゃるのですか。ここがいずこかもわからない所から」「いかにも。まっすぐ戻れば鎌倉往還に戻れるであろうな」「先生、あの大木から幾度となく道を曲がってきたではありませんか。まっすぐ戻ったら余計に迷ってしまいますよ。『いざ鎌倉』。ああ、なんと虚しい」「仕方ない。今宵はここで寝よう」「ええっ。ここで寝るんですか。もっとましな所にしましょうよ」「泣くな。進んでも止まってもうるさい奴だな」 善次郎は嫌だ嫌だとわめいている。北斎は構わず床の仕度を始めてもう寝転がっている。「誠にここで寝るのか」 善次郎は涙を拭いながら横になる。草が頬にチクチク当たって眠れやしない。夜が怖くて瞼を閉じれやしない。早く夜が明けてくれないか。「善次郎、早く目を覚ませ」「もうしばらく寝かせて下さい、先生」「何言うか。早く起きろ」 善次郎は目を擦りながら体をゆっくりと起こした。すると眼前にそびえ立つ富士を北斎は指差していた。「見ろ、善次郎。真っ赤に染まった冨嶽であるぞ」 北斎は滅多に見られない景色だと言い、その顔は色めき立っている。「何言っているのですか、先生。富士の山肌は土の色ですよ。朝日に光って見えただけなのではないのですか」「お主はまだ寝惚けておるのか。この真紅の冨嶽がわからぬとは、それでも誠にお主は絵師の端くれか」 北斎は急いで筆をとる。「見よ。この真紅の冨嶽を。この鮮やかな赤は燃えているのか。否、燃えているのであればそこまで神々しくはない。それとも血の色なのか。我らと同じ血が通っておるのか」 北斎はいつもより饒舌になっている。よほど見応えのある山容なのであろう。善次郎は口を開けて北斎の口上をただ聴いているだけだった。「これが噂に聞く紅玉芙蓉ではあるまいか」「しばし待って下さい、先生。紅玉芙蓉とは相州箱根から見えるものであると噂に聞きます。しかも冬によく見られる山肌であるとも耳にします。はっ、なれば私共は今、迷いに迷って相州箱根にいるという事なのですか。天下の嶮を歩き回ったのか。しんどいはずだ」 すると富士はみるみる赤くなくなって、いつもの山肌に戻っていった。「ああ、善次郎、お主がうるさいから真紅が消えていくではないか」「消えるも何も初めから地の色ではないですか」「ええい。四の五の言わずに冨嶽を真紅に戻してこい」「そんな無茶苦茶な。為す術がありませんよ」「誠にお主はそれでも絵師の端くれか。信じられん」 北斎は筆をしまい、また富士を目指すべく歩き出した。善次郎も慌てて荷物をまとめて後を追いかける。 二人は宛もなく山道を歩き続けて今日もまた日が暮れようとしている。「先生、誠にこの道で合っているのですか」「何を言う。目の前に冨嶽が望めるであろうが」「しかし一向に富士に近づく気配が感じられません。私共はもしかして富士の周りをぐるりと周っているだけなのではございませんか」「否、向かっておる」 北斎は後ろを振り返らず富士へ向かって突き進んでいる。「それにしても今朝は真紅の冨嶽が拝めなかったな」「ですから富士の山肌はいつも変わらず地の色ですよ。はっ、もしかして先生はもう一度その赤い富士を見たいがために富士へ向かわず周りを周っておられるのですが」「否、向かっておる」「誠ですか。赤い富士が拝める所を探しているだけではございませんか」「儂は小林平八郎の子孫ぞ。左様に卑しい真似はせぬ」 善次郎は北斎が強がっているだけだと確信し、少し疲れがとれた。進める歩にも力強さが戻ってきた。 二人はまたどこかわからぬ所で夜を明かし、そして道なき道を掻き分けて少し広い場所に出た。そこでは丸太で組んだ足場の上に太い角柱に乗りかかって鋸を挽いている男達がいる。その傍らでは鋸の目立てに勤しむ者や焚き火に当たっている者もいる。「おーい、お昼にしますよ」 そこへ赤子を背負った女房が弁当だろうか大きな包みを抱えてやってきた。皆が手を休めて女房の所に集まってきたと同時に北斎と善次郎も女房に近寄る。「すみません。私共は旅の者で富士へ向かう道すがら、恥ずかしながら道に迷いまして、つかぬ事を訊きますが今こちらはどの辺りなのですかね」 善次郎は懐から取り出した地図を広げる。北斎は筆をとり、下絵を描き始める。「ここいらは遠州の光岳だよ」 善次郎は地図で光岳を探し、そして地図を指差し光岳をみつける。「先生、富士を通り越してますよ。戻りますよ」 北斎は慌てて下絵を懐にしまう。善次郎は女房や男達に礼を述べ二人は来た道を引き返そうとする。「おいあんた達、富士のお山へ行くならこっちだよ」 二人は男達に富士への道のりを教えてもらい、再び礼を述べる。 次の日、二人はすんなりと富士を登りきり再び奥宮に参る。そして北斎は振り返る。「善次郎、お主の言う通りにさっさと帰るぞ」 師の言の葉に善次郎は耳を疑った。「もう嫌だ。富士とか冨嶽とか。登るのも拝むのも嫌だ」 善次郎は心に誓った。「もう二度と冨嶽という言の葉も聞きたくない」 池田善次郎、後に渓斎英泉という名の絵師になる男。