「にぃに‼」
少女の声が耳を掠めた、と思った時にはアールの腕は誰かに掴まれていた。遠慮の無い両手にバランスを崩しながらも半身を翻し振り向けば、柔らかい日差し注ぐシアンの街に不釣り合いな風体の少女の姿。
ギラついた瞳の白い部分は微かに濁り、に血色が悪く時を経たビスクドールの様な肌は、鞣したばかりの獣のそれのように光を反射することはなく、割に鈍く輝いていた。髪は手入れをできる状況にないからか、あちらこちらに絡まりどうやってツインテールにしているのか分からない程にボサボサだった。服はツギハギだらけで、汚れや擦り切れが目立つ。何より、腐臭とも汗の発酵した臭いとも違う何処か饐えたカビのような臭いが、本当に微かだが彼女の周りを漂っている。
ギフトの娘だ、と直ぐに分かったのは彼女があまりにも典型的な見てくれをしていたからだった。そして何故に腕を取られているのか分からなかったのは、ギフトの人間というのを見たのが初めてだったからだ。
「ああ、やっと会えた‼ あの黒髪の吸血鬼ババアに連れてかれてから私ずーっと探してたんだから‼ 無事で良かった‼」
ぎゅうう、と抱き締められて息が詰まった。フィオーネですら此処まで至近距離で接してきた事がなくて、対応に困る。
「だ……誰、キミ……」
何とか体を押し戻し(それでも首に回った腕は外せなかったが)少女の顔を覗き込む。やはりアールには見覚えはないが、それでも彼女は問われたことに不服そうだった。
「誰って、私よ! マーガレット‼」
「マーガレット?」
やはり首を傾げる。マーガレット、といえばつい先日シアンで起きた騒動の元凶であるスノーだとか言う少女の苗字がそんなだった気がする。気がするが、あの少女は何というか良い意味でも悪い意味でも無垢で純粋な幼子だった。対して目の前の彼女は――言い方を気にしなければ育ちの悪そうな――兎角、対象的だ。そもそもフィオーネと対して変わらない年齢のように見える。
「だから、マーガレット=ベインだって! にぃに、忘れたの?」
「忘れたって……第一、俺に妹なんて居ないし」
「はあ? 私が妹! エディーの妹‼」
「ちょ、ちょっと待って。何でそっちの名前知ってんの」
まあまあな至近距離で放たれる声量に気圧されながら問いかける。ミドルネームの方を――しかも愛称で――呼ばれることなんて滅多にないせいか流しかけたが、聞きたいことがたくさんあった。
「なんでも何もにぃにの名前でしょっ。さっきから何言ってんの」
「それは割とこっちの台詞なんだけど……あの、本気で君なんなの」
「ペギー‼」
「は?」
「ペギーって呼んで‼」
「あ、ああ……じゃあペギー、ちゃんと最初から……説明、」
エーリヒに近い調子で上手いこと話が進まないマーガレットに段々と面倒くさいという感情を隠さなくなりつつあったアールの口が、そこではたりと止まった。
口馴染みがあるというべきか、知った顔を呼ぶような感覚に知らず眉が寄る。知らないけれど、知っている。デジャヴだ。それも、ぞわりと体中に奇妙な感覚と熱が走るような、お世辞にも良いとは言えないような。
「……ペギー」
試しにもう一度と辿々しく呼んだ名に少女は目を輝かせる。けれど、アールはそれどころじゃなかった。芋づる式に引きずりだされた記憶の処理に意識が持っていかれる。
――「ペギーに手ぇ出してみろよ」
「っ、」
瞳孔が開く。白髪こそ多少混ざってはいたけれど確かに黒い髪の、若々しいテレーズの顔がはっきりと“思い出せる”。そんな彼女へ吐き捨てた、自分の言葉も。
――「てめぇのドタマ、ぶち抜いてやらあ」
「知らない」
――「おえれえ吸血鬼サマは伯爵でもねえ貧民がタイソーな名前つけんのにも文句たれんのか」
「ちがう」
――「汚え毒のガキにお綺麗な花の名前をつけちゃ悪いのかよ」
「うるさいっ」
――「俺の名前は、」
「にぃに?」
――「アールさん?」
――「ヤダ‼ 返せ‼ にぃにを返せーー‼」
「黙れ‼‼」
目の前の少女と、誰かも分からない幼い少女と、フィオーネと、過去のフィオーネが耳鳴りのように入り混じるのが煩わしくて。確かな幼い自分の声が灼熱と共に渦巻くのが息苦しくて。だというのに伝う冷や汗が気持ち悪くて。あの毒に汚染された空気とシアンの澄んだ空気が合わさったような感覚に目眩がして。
自分が声を荒げたことも、マーガレットの華奢で済ませるにはあまりにも細い体躯を突き飛ばした事も、その手が無意識に風の力をまとっていた事も、常らしくなくアールは気付けなかった。
――「エドワード=ベイン。エディーだ」
「違う……俺は、アールだ。アルだ」
マーガレットの拘束から解放された体は、重力に抗う力もなく崩れ落ちる。自分の放った言葉を逃がすまいと鼻ごと口を覆う。右手はその黒髪を掻き毟り、加減が出来ないせいで震えていた。
「アル……俺、はアール、」
――「貴方の名前はアール・エドワード。エドワード伯爵よ」
初めて見た日の“母”の声が、ただひとつ、確かな形を持って響いた。
望まぬ鍵は
(それを望み全てを解き放つ)
