おそらく、今年最後になったであろう滋賀県への旅に出かけたばかりで、身体も心も、

すっかり、ぐだぐだに、だらだらに砕けてしまっていた数日間を過ごした後、

昨日からいつもの散歩に出かけたところ、何とも素敵な出逢いがあり、気づくと帰宅後は、

どうしても何かしら書き残したいという熱い衝動に駆られ、途中まで書いていたブログに加筆したところで、投稿する予定だった。

念の為、下書き保存するという安全策を講じたのが、すべての不運の始まりとでも言えるであろうか、また重ねて加筆した出来上がりの投稿分までもが、それは、それは、見事に消えてしまったのだ。

 

私の現裁量では、到底見つけ出すこともできず、結局本日を迎えてしまうことになった。

 

高知市では、川がここかしこに流れている。

太平洋に面しているので、すべて大海に通じているわけであるが、何とも私など、山と川以外あまりご縁のない環境の中での幼い頃の記憶しかない身には、想定外のスケールの大きさに驚嘆するのである。

 

雨の後の虹とも表現できようか、昨日の落胆から、出かけたリベンジの散歩であったというのに、私の今日の散歩は、遥かに予想を超えた奇跡の光景に出会うという幸運を得られたのである。

 

昨日も、白い鳥が私の目前に飛来して、川に降り立ってくださったのに、今日は、また別の川でも同じような経験をすることとなったのである。そして、今は、時間の制約から一才の縛りをなくした私は、時間という概念すらどこかへ追いやってしまったような日々を送っている。

だから、兎も角時間は、有り余っていると言っても過言ではない状況の中の散歩というわけなので、永遠にその白い鳥の一挙手一投足を見続けることが出来たのだ。きっと私の様子を見ていたのだろう。自転車に乗ったどう見ても地元の親子が、白い鳥の存在に気づき、「あ、白い鳥がいる!」と驚きの表情を見せていたのには、私の方が逆に驚いてしまった。

 

しばらく歩みを進めると、今度はかなり大きな川に合流する地点まで来たところで、あり得ない感動を体験することになった。下を見下ろすと、大きな鯉の群れが目に迫ってきたと思うと、その辺り一面には、何とも愛らしい鴨の水浴びの行列に、自然と触れる生命の尊厳の深さに想いを巡らし、目頭が熱くなってしまったのだ。

 

大きな川なので、日曜日の今日などは、かなりのランニング姿の男女を見かけたが、誰も殊に目を止めることもなく、ひたすらランニングに

集中している様子だった。

 

そして、帰り際に、再び別の小川のほとりを歩いていると、何と再び白い鳥に遭遇するという何とも言葉にしてしまってはあまりにも陳腐になってしまうので、出会いの感激の想いは、ただ私の胸の奥に秘めておくことにしたい。

 

人は、何故あれ程までに、先を急ぐんだろう?

東京に3ヶ月間程住んでいた時に

 

「貴方の心は、どこに置いてきたの?」

「貴方の本当の想いのままに、生きているの?」

 

朝の満員電車に乗り合わせた際は、マスクを掛けたその下にどんな想いをそれぞれ隠しているんだろう?

などと、勝手に思ったりしていたものだ。

 

やっぱり、自然に恵まれた高知市でも、同じ想いに駆られてしまうのは、一体何故なんだろう?

 

きっと私のツインレイも同じ想いでいるに違いない。

あの白い鳥は、私に 「君もそう思うだろう? だから何かしら動こうよ。君の今できる精一杯の力を出してみようよ。」

などと問いかけてくれていたのかもしれない。

 

道端に落ちている、鳥の羽根に遭遇したり、

季節外れの蝶たちに出会ったり、

エンジェルナンバーに至っては、見かけない日はない程生活の一部になってしまっている今の状況を振り返る時に、

 

やっぱり私は、魂のパートナーに出逢ったという現実を受け入れる心の準備に真剣に向かう想いをこれまで以上に強くしている。

これからもずっと私の生活には、今欠かせない一曲と共に、一歩づつ前へ進んで行きたい。

 

朝の散歩の私のお供の一曲、”たんぽぽ”を携えて明日も明るく光り煌めく

未来に向かって進んでいこうと思う。