父親は教育、しつけを意識し過ぎていたのかもしれない。『勉強しろ!』という言葉に僕は『恐怖』のイメージしかわかず、勉強しないといけないというよりも見せかけでもいいから勉強しているフリなどをして親に納得させなければならないという風にしか考えられなかった。
そこに何故勉強をしなければならないかの理由もなかった。それどころか、それ以外に父と話した記憶が全く無い。
僕は父から何を教わったのだろう…
何かを教わったというより、自分なりの解釈をするようにしたんではないだろうか。
ぶつかり合ったりして分かり合えたり。
自分が親になって親の気持ちが分かったり。
それで関係が修復したというハッピーエンドを思い描いたりするもんだが、必ずしもそうなるんだろうか。
なるんだとしても僕はそれをそこまで望まない自分がいる。
離れて暮らす...この距離が一番いい...。そう思う。
もう憎んではいないが仲良くなる必要性も感じない。
だから人から常識的なハッピーエンドを押し付けられると疑問しか湧かない。
もしかしたらこの先そのようなハッピーエンドに憧れてしまうのかもしれない。
でも今はそうは思わない。
だから絶対を押し付けてくる人は、信用が出来ない。
その答えが正しいものだとしても、信用が無ければ『心にとまらない』
自分が間違った考え方をしていて、頭から違うよと言われるより一度受け入れて貰ってから遠回りにそっとこういう考え方もあるねと言われた方が、自分の考え方は間違いかもと悔い改める事が出来るのかもしれない。
社会的常識を学ぶのは勿論だけど、先回りして伝えるのはまだ学んでないものからしたら理解に苦しむ...というか、うっと惜しい説教としか捉えられないのかもしれない。
相手が見える位置に自分も立ってあげ同じ視点から話をしなければならない。
今の自分のやり方がハッピーエンドかなんてわからない。
でも人のやり方でハッピーエンドになるくらいなら、自分のやり方で失敗した方が経験にもなり、自分で失敗を認められるようになるのではないだろうか。







Ct_UFNBHzw.jpg