〇月☓日、わたしの体調が良くなって来たので、チャリに乗って街道を行った。


チャリはダホンのメトロという折りたたみチャリだ。ダホンの一番安いやつである。



これだ↑(これは最新モデル・ネットより写真借用)


 


2008年にこれを購入してからは、輪行(電車にチャリを運び旅行する事)していた。


京都、大阪、金沢、会津若松、成田などに行った。輪行バッグに積めて運ぶのである。


さすがに最近は体力が衰えたので輪行はしないようにしている。


 


最初に題名とは異なり恐縮なのだが、ヤボ用があって三鷹に行った。


 


以前、わたしが住んでいた、アパートがまだあった。27年前、1991年の事だ。



何も変わっちゃいなかった。


 


その頃はこのじゃがいも畑の空の向こうにUFOをよく見た。今もじゃがいも畑だったので嬉しかった。



 


連雀通り沿いの上連雀神明宮に寄る。



 


由緒書き



狛犬



 



両方共、口を開けているように見えて可笑しかった。


 


連雀通りから牟礼に出て人見街道に入る。浜田山に向かうのだ。



 


牟礼には玉川上水にかかる旧牟礼橋がある。煉瓦のアーチ橋は大正中期に作られたらしい。



玉川上水は太宰治が昭和23年(1948)6月に入水自殺を図り生涯を終えた川として有名だ。


 


新牟礼橋は一部工事中だっった。



人見街道(ひとみかいどう)は、東京都府中市八幡と杉並区大宮の大宮八幡宮を結ぶ、古くからの街道である。別名「大宮街道」「下総街道」「府中道」「八幡通り」。旧府道24号・府中中野線。


「人見街道」の名は、江戸以前にあった「人見村」を通る道であった事に由来するもので、地名に「小人見」の名称がある。さらに、北にある浅間山の別名が人見山である。一説には浅間山の別名人見山(小高い丘から敵の情勢を見る意味)からとも。 浅間山を構成する前山尾根上東端に黒い石碑の「人見四郎の墓跡」があるなど、地域の一族「人見氏」にも関係している。


「下総街道」の名は、下総国へ向かっていたとされる事から鎌倉街道の一つとして利用されていた本来の人見街道起点は、杉並区浜田山三丁目以東杉並区道となっており「八幡通り」と表示されている。(ウィキペディアからコピー)


 


人見街道を少し走ると久我山駅に近くなった。


神田川が流れていた。秋葉原、浅草橋では大きくなるこの川はこの辺ではまだ細い。



井の頭公園から流れて最後は隅田川に行き着く。


 


側に中華そば・甲斐があったので入った。腹ぺこだった事を思い出した。



中華そば650円



とても美味しかった。甲斐に関しては、後程、別記事にて書きたいと思う。


 


人見街道は井の頭線の踏切を通る。



左手に久我山駅がある。


 


ここからは狭いくせに交通量が多く走るのが若干不自由だ。スピードが出せない。



柿の実が熟して来ているらしい。スズメが集まっていた。


 


喉が渇いたので途中のファミリーマートでお茶を買った。



清掃工場の煙突が見えた。東京都杉並区高井戸東にある杉並清掃工場である。


 


環八通りに出た。



環八を過ぎたら、道は広くなった。路肩を走った。


 


少し走ったら浜田山に着いた。商店街。



お初浜田山だ。



 


浜田山付近には井の頭通りがある。これを東上すると渋谷に出る。



右が井の頭通りで左が人見街道だ。


 


わたしは人見街道を走った。およそ8km位の道のりだったが、久しぶりに走ったわたしの足は少し筋肉痛だった。


山本小鉄さんが生前、「普段から鍛えていないから衰えていくんです。」とプロレスの解説にて仰られたのを思い出した。


 


人見街道を浜田山四丁目の信号で左折した。



 


そこから北上して五日市街道に入る。



善福寺川にかかる尾崎橋の横の公園で休んだ。写真の上の黄色い丸印。



赤とんぼが飛んでいたが、蝉も鳴いていた。夏の名残だ。



 


五日市街道を少し走る。



徳川家康の江戸入府後、五日市(現・あきる野市)や檜原から木材・炭などを運ぶために整備された街道。初期には「伊奈道」と呼ばれ、伊奈(五日市より少し東にある集落)の石材を扱っていた石工が江戸城修築のため江戸へ行き来するための道として発展したが、修築が終わり木炭輸送が主流になるにつれ伊奈と五日市の重要性が逆転した。武蔵野台地の新田開発が進むと、多摩地域と江戸を結ぶ街道の一つとして発展した。(ウィキペディアからコピー)


 


五日市街道から青梅街道に出た。



 


足が痛くなったので終わりにした。