カエサル日記京都編 -13ページ目

西安・北京旅行1日目(移動日)

中国の西安・北京に、先月いってまいりました。

3月の二週目の日曜日から木曜日まで。

今回は、1日目の移動日について書いていきます。

日記も京都編とタイトルを変更した通り、現在京都に住んでいます。
京都編と書くと、るろうに剣心を思い出す(笑)
志志雄様ですねv(^-^)v

京都に住んでるので、関西国際空港へ。

ツレと二人で行くので、関西国際空港で待ち合わせと約束してました。

しかし、な、なんと、ツレが同じ電車(南海電車)に乗ってました。

し、しかも南海特急って指定席なのに、同じ車両でした(笑)

めちゃくちゃテンションあがりましたねメラメラ
奇跡すぎる。

で、いろいろツレと話しながら、関空へ。

受付をすまし、一時間後に出発。

昼過ぎでした。一時くらい。
途中、時間を間違えて、乗り遅れかけ、泣きそうになったのは、今では笑い話。

けど、必死であせったけんね!

飛行機の中でのんびり~。

景色そげん変わらんよね。空の上は。


で、乗り継ぎの北京空港へ。

昼、4時過ぎに着き、西安空港行きの飛行機は夜八時半くらいに出発じゃけぇ、飯でも食べれるな~と思ってたら、事件発生!

な、なんと飛行機の中に預けた荷物がない!

ツレと二人で、ノーマイバゲッジと叫びながら、北京空港をさまよいました。

言葉通じんけん、半泣きになったし。
いや、マジで半泣きになったししょぼん

しかも、ノーマイバゲッジって、訳すと、いいえ私の鞄って意味わからんww    


けど、優しい空港の役員さんに助けられ、無事、鞄見つかりました!


良かった~。


そして、夜七時半まで荷物探してたけん、急いで、ゲートへ。


途中、荷物検査で、中国語通じんし、パスポートをペアポートといわれて、わからず、パスポートを出さなかったので、中国人にぶちギレられました(笑)

ま、パスポートちゃんとそのあと見せましたよ。


中国人仕事雑やわ。荷物検査で人の荷物を手荒に扱うし、荷物いれるかごを投げてくるし。


これ、日本やったら、クビやな。


で、なんとかゲートへ。


しかし、ゲートで待ってると、変なおばはんが、○番ゲートどこって聞いてきた。


で、中国語で、日本人じゃけぇわからんって答えたら、おばはんめっちゃキレる。


わからん答えて、キレられるとか、わけわからんww


で、そのおばはん、目的のゲートついても、まだうろうろゲート探してはったわ!(エセ京都弁)


頭おかしすぎワロタww


まーいろいろあって、なんとか西安へ。

西安空港では、送迎の人がなかなか見つからないトラブルあったけど、それ以外は特になし。

翌、深夜一時前に西安のホテルに到着。

近くの、画像にある鼓楼が綺麗でした。



ちなみに、晩飯食べてなかったけん、鼓楼近くの、屋台で食べました。


ここのチャーハンぶちうまいんよ!

最高じゃったけんね!


ってことで腹ごしらえしたし、朝早いんで、ホテルにまっすぐ帰り、就寝しました。


1日目終了

2012/09/16

湯田温泉の白狐のカエサル日記-DSC_0259.JPG

今日朝ごはんを食べながらビデオ屋で借りてきたザ・ローマ帝国の興亡2巻を見ました。


ウェスパシアヌス帝と後のティトゥス帝親子によるユダヤ戦記の話しがありました。


この話も面白いのですが、僕の一番好きなローマ皇帝のティトゥス帝の名前がでてきたので、今日はティトゥス帝とドミティアヌス帝兄弟の話を紹介します。


西暦79年6月にウェスパシアヌス帝が70歳で亡くなりました。


ウェスパシアヌス帝は名君として評価高いので調べると面白いかもです(^-^)

死の翌日、ティトゥスが皇帝に即位します。


ティトゥス帝は、帝位に就くまで父ウェスパシアヌス帝の右腕として10年間ともに政治を行っていたものの、非常に評判がよくない人でした。


ティトゥスは、ウェスパシアヌス帝のもと七回執政官となり、護民官と親衛隊長も兼任していた副皇帝的存在でした。


ウェスパシアヌス帝が他人を信用していなかったかということから皇帝の評判をよくしておくために、ティトゥスが嫌われ役になっていた可能性があるそうです。

本当ならティトゥスってぶちかっこいいですね。


目立たない方法で政敵を始末していたティトゥスは、周りから無慈悲で残酷な男と思われたあげく、稚児や宦官をはべらせて夜遊びしているという噂も広がっていたため、ティトゥスが即位すると第2のネロ帝となると言われていました。



ところがどっこいティトゥスが皇帝となるやいなや、ティトゥスの評判が逆転してしまいます。


評判があがった理由として、父ウェスパシアヌス帝が着工していた現世界遺産のコロッセオの完成と父ウェスパシアヌス帝の神殿の建設をはじめたことてネロ帝の黄金宮殿の敷地の一部に、ローマ市民のための浴場を建設したことがあげられます。


特にコロッセオの完成記念にティトゥス帝は大規模な100日競技という催し物をして、ローマ市民を熱狂させました。


即位して2ヶ月後にかの有名なヴェスヴィオ山の大噴火でポンペイやヘルクラネイムが埋没する大災害が起こりました。
この時ティトゥス帝は皇帝自ら被災地に二度も赴き、救助や復興活動を行いました。

ちなみにヘルクラネイムは、あまり有名ではないですが、人の死に方がポンペイより残酷だったみたいです。ローマの長崎みたいな感じかな?


翌年にはローマ大火がおこりますが、ティトゥス帝は私財をなげうってまで復旧作業を急がせました。


ここまでした皇帝はローマにはいなかったと思われます。



しかし、ティトゥス帝は在位2年(三年?)で突然病没しました。



ローマの市民たちは皇帝の死を自分の家族が死んだかのように悲しんだと言われています。


これは神君カエサル公くらいしたわれていたと思いますね。


しかし、あまりにも短い在位期間のため本当に名君だったのかは、かなり評判がわかれるところです。

なぜなら次に説明するティトゥス帝の弟ドミティアヌス帝がいますから。


ドミティアヌス帝は、兄が重病だと知るやいなや行動を開始します。


兄が死ぬ前に親衛隊の兵舎に行き、兵士たちに自分が皇帝であると宣言させました。


ドミティアヌス帝は、在位期間の大部分は名君だったみたいです。


父と兄の残した過酷な造営事業を立派にやりとげました。


コロッセオの最終的な仕上げと父ウェスパシアヌス帝神殿の完成それにティトゥス帝の時代の復旧作業の成功にローマの都市計画に優れた広場の建設等々ドミティアヌス帝はやってのけました。


ふだんの政治でも帝国の安定を主眼とした施策を行っていたのと言われています。


ドミティアヌス帝は、風紀を正そうとして、男性の去勢の禁止や同性愛を行った元老院議院を罰したり、愛人と関係をもったウェスタの巫女を四人に死刑を宣告するなど、徐々に専制君主と化していきます。


ドミティアヌス帝の時代からドナウ川国境での攻防が激しくりなります。

ダキア人がローマ領に攻めいり、属州総督を殺害し、これに怒ったローマ軍の司令官がダキアに進行したが、返り討ちあい殺される事件がおきたり、ローマが不利な状態であったが、ドミティアヌス帝はなんとか国境を守りました。


ドミティアヌス帝は、93年におかしくなっていきます。


元老院議院、騎士階級、宮廷職員、補佐官等々その親族を男女問わず処刑や流刑と次々にしていきます。


まさに恐怖政治。虫けらのように人を殺すことができるローマ皇帝の絶大なる権力は三年間続きました。


ついに、96年にドミティアヌス帝は宮殿で、何人もの短剣で刺し殺されました。


ドミティアヌス帝には子がなく元老院はネルウァを皇帝にしました。


ここに、ウェスパシアヌス帝によるフラウィウス朝は断絶。


ネルウァ帝からの五賢帝時代へとローマは新しい時代へと進むのである。

アッバース朝第七代カリフ・マアムーンの光と影

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アッバース朝の繁栄の絶頂期を築いた第五代カリフ・ハールーン=アッ=ラーシードは、彼の死後帝国を息子たちの間で二分することを考えていた。


これは、自分の死後、政治的な争いが起こるのを防ぐ目的があった。


しかし、彼の死後二人の息子たちの間で深刻な対立が起きた。



ハールーンの死後、弟アーミンと兄マアムーンの兄弟の対立が深刻となったのである。


まず、809年に弟アーミンが兄を差し置いてカリフに即位し、兄マアムーンをホラーサーン総督にした。


しかし、ホラーサーンの租税の扱いをめぐり、争いが起きたため、兄マアムーンが811年にカリフ位を宣言し、このため二人のカリフが存在する第一次内乱の時以来の危機となり、人々は不安を抱いたのである。


マアムーンが、バクダードに送った軍隊は街を一年間包囲・攻城したため、ついに813年に陥落し、弟アーミンは捕らえられ処刑された。

一年間の戦いで、バクダード市民も参加したといわれており、これは故郷を守るジハードなのではないだろうか?


また、この時弟カリフ・アーミンを処刑することにより、カリフの権威が低下する先駆けとなってしまったのはマアムーンの失敗の一つかもしれない。



弟を倒し、名実ともにカリフとなったマアムーンは驚くべき行動にでる。



アッバース朝の都バクダードではなく、遠くはなれた辺境のホラーサーンの地から帝国を統治しようとしたのである。


アッバース家の人々や都の人々の強い反対をマアムーンは、押し切ったのである。




ホラーサーン出身の側近が力を持っており、彼らによってこの政策は決められた。



しかし、やはり地勢的な力学に反しており、国内の争乱がおさまらないめに、819年にマアムーンは都バクダードに戻ったのである。


このマアムーンがホラーサーンで統治した期間に失ったものは大きかったが、内戦の終了により栄華は戻ることになる。



ここからは、マアムーンの 治世の光と影について論じていきたい。


マアムーンの治世で最も優れた業績といえば、ギリシア文化・ヘレニズム文化の導入である。ギリシア文化はビザンツ帝国からもたらされたが、ヘレニズム文化は、ビザンツ帝国が禁止していたため、ペルシアからもたらされた可能性がある。


ギリシア・ヘレニズム文化から、医学・哲学・幾何学・天文学等の多くの科学、思想が流入した。


また、マアムーンは優れた学者を集め、ギリシア語やシリア語からの翻訳を奨励した。

翻訳を通じた文化の伝播という点では、人類における二大翻訳運動の一つで、仏典の漢訳に並ぶ規模と質であると高い評価を受けている。


この翻訳運動により、後のイスラーム科学の発展に多大な貢献をし、イスラーム世界そして世界史全体としても高く評価されている。

なにせ、イスラーム世界のギリシア・ヘレニズム文化導入が後のヨーロッパ世界のルネサンスに繋がるのだから。

しかし、優れた統治者であるマアムーンも大きな失敗がある。


ミフナと呼ばれる審問を設けたことである。


イスラームの歴史にはキリスト教のような異端審問の制度はほとんど存在しない。


その理由は、宗教的権威を独占する聖職者と教会や公会議が存在しないためと言われている。

正統と異端を審査するには、それを審査する権威が必用なためである。



そのため、ミフナは、きわめて例外的だったのである。


しかし、マアムーンが設けたミフナを異端審問と呼ぶかどうかは疑問である。


その機能はキリスト世界の異端審問と似ているが、ミフナ自体が異端的だったからである。

なぜなら、正統と異端を制度的に断定することが、イスラーム世界ではなじまないものであり、マアムーンが正統として学者たちや社会全体に押し付けようとした教義が、社会の抵抗で拒絶されてしまったからである。



さて、マアムーンが押し付けようとした教義とは何だったのかをここで説明しよう。


イスラームは朗誦する聖典によって、聴覚的イマジネーションが掻き立てられることによって信仰が深まる仕組みを持っている。
理屈で神や宇宙を論じるものではない。
どころか、ギリシアの哲学や倫理学の導入によって、理屈で信条を考える人々がでてきはじめた。
高度な体型性を持った最初の神学をムウタズィラ学派という。


ムウタズィラ学派は、合理的な思考法に立脚してイスラームの教義を説明しようとした。
マアムーンはこの学派を支持し、アッバース朝の公認学派とし、逆らう人々を権威と権力で従わせようとした。


ムウタズィラ学派が問題となった教説として有名なのが、クルアーン創造説である。

クルアーンは神が創造したもので、神の永遠の言葉そのものではないという考え方である。
一般のムスリムは神の言葉=クルアーンと考えていた。

しかし、ムウタズィラ学派は、ギリシア的な論理をもって、神と神の言葉を論じた。


世界を創造したアッラーは永遠であるが、アッラーの永遠の言葉がアッラーの他にあるとすれば、永遠の存在が二つ存在することになる。

これは一神教の原理に反する。しかも、クルアーンは人が朗誦し、紙に書き、読んだり聞いたりするものであるから、これが永遠とは考えられないと考えたのである。


とすれば、聖典はこの世にある被創物であるという結論になる。

ムウタズィラ学派は、これなら矛盾は生じないと考えた。


そして、カリフ・マアムーンも納得することとなる。


833年にマアムーンはこの世を去るが、、続く二代のカリフにわたりミフナは執行され続けた。


社会の反対や抵抗でカリフ・ムタワッキルの代になってようやく16年続いたミフナは廃止されたのである。


これは、国家と社会の戦いで、社会が勝利する結果となり、イスラームの護持者がウラマーであることが確立する結果となったのである。

ミフナは、マアムーンの大きな失敗の一つであろう。

また、マアムーンの業績の一つに、それまでアッバース朝の中核であった軍隊に頼らず、新たにトルコ系の奴隷軍団を創出するなどの軍事制度の改革に手をつけたことがある。



これは後のマムルーク制度の一歩ではないかと僕は思う。



このように、カリフ・マアムーンは、光と影があるカリフであると私は思った。

まるでこの点では大唐帝国の玄宗皇帝に似ている気がした。








PS
約二年ぶりに記事を書いたので、かなりの大作となりました。

スマートホンめっちゃ書きにくいので、かなり時間がかかりました。


参考図書は画像の本です。


終わり。