サンクチュアリ伊那教会

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私達は多くの問題を抱えながら生きています。幸せになる為に、人間本来のあるべき姿を知り、どのように生きるべきかを学び、日々の生活の中で実践して行く事が大切です。このブログを通して一人でも多くの方が学んで下されば幸いです。

真のお父様のみことば 
「歴史的な悲運の峠を我々は越えよう」1958年1月19日

越えるべき悲運の運命の道 
 今日この世の中に数多くの人々が生きているとしても、彼らの前には越えるに越えられない悲運の運命の道があるということを、皆さんはよく知っているのです。 

 キリスト教思想から見ても、終わりの日には審判というものがあるのです。それで多くのキリスト教徒たちは、どのようにこの死の峠を越えるかを案じて今まで生きてきたことを、皆さんはよく知っているのです。 

 現在生きている自分を推し量って見るとき、自身も分からない悲しみの運命の中にあるということを、自ら認めれば認めるほど深刻な問題が自身の前途に、あるいは周囲に、あるいは心と体に、まとい付いていることを感じるのです。 

 こんな悲運の環境を跳ね返してゆく使命が今日の我々にあり、これが残る人生の使命なのです。こんな悲しみの環境を踏み越えて上がってゆく、その一日が皆さんの前にあってこそ、皆さんは過ぎた日の悲運の歴史を踏み越えて行けるのであり、これを踏み越えてこそ新しい一日の、希望の園を迎えることができるのです。 

 このような時点にある我々が、過去の歴史を回顧して見るとき、皆さんが今迎えているこの悲運の峠や環境が、ただ皆さんだけが迎えている悲運の環境ではありません。六〇〇〇年という長い歳月を経てきて、我々の先祖たちもやはり悲運の路程を経てきたことを、皆さんは知らねばなりません。 

 それでは歴史を探って見て、皆さんは先祖たちが悲運の立場を避けられなかったと同時に、人間と創造主の間の関係においても悲運の立場を避けられない場にあったことを、感じなければなりません。皆さんは自身を中心に歴史性を代身して、あるいは創造理念を代身して、こんな切迫した心情を感じると同時にある一日、歴史を代身して勝利したという喜びの日を持たねばなりません。でなければ今日の人間社会において、幸福とか希望とか理念が、みな途絶えてしまうのです。 

 こんな歴史過程を経てきた人間ですから、神は人間の精神と生活に垂れ下がっている悲運の幕、歴史を通して流れている悲運の幕を、どのようにして開くかという責任を感じてこられたのです。道を求める修道の人たちも、人間のためにこの問題を解決しようという責任感を抱いてきたのです。今まで存在してきた数多くの宗教が、未解決の課題を残したとするなら、この問題を解決しなければならない使命を残したのです。 

 人間に残っているこんな悲運の障壁を除くために、天が動員されていることを皆さんは知っています。この悲運の運命を打開するために天が動員されると同時に、あの世の霊界が動員されているということを、皆さんは知らねばなりません。さらには地上の人間たちも動員されているのです。 

 悲運の障壁を踏み越える歴史的な一時を捜し求める人間が、この時を求められないために、今日我々が再びこの悲運の歴史を引き継いでいるのです。それゆえ我々は今、団結してこのすべての悲運の障壁を踏み越えなければなりません。これを踏み越えなかったら、皆さんの後孫たちもやはり悲運の障壁を越えなければならず、先祖たちが歩んできた死の道、悲しみの道、涙の道を免れえないことを、皆さんは知らねばなりません。 

 これを考えてみるとき、今日皆さん自身は、単純な存在ではないことを知るのです。皆さん自身には天上の哀願が懸かっており、人類の哀願が染みているのです。さらには皆さんは過去・現在・未来の、哀願全体を解決すべき張本人の立場に立っているのです。 

 皆さんが一日の生活で、あるいは一代の人生で、このすべての悲運の障壁を開拓して越えなかったとしたら、皆さんを望み見てきた歴史的な所望、あるいは摂理的な所望、あるいは天的な所望、皆さん一人を望み見て、悲運の障壁を越えようとした霊界の所望が、崩れてしまうのです。これを考えてみるとき、皆さんは個人ではないということを悟らねばなりません。 

 今日多くの人がいますが、果たして神の悲運と天使の悲運と、未来人類の悲運の心情まで代身して、我々を妨げている見えざるサタンと悪の群れに対抗して闘う責任者が、どれほどいるかを考えてみなければなりません。 

 これを考えてみるとき、今日我々だけがこんな立場に出逢うのではなく、今まで神の摂理に対してきた数多くの先烈たちも、同じ立場、同じ環境において自身の人生を放棄しても、この一つの問題を解決するために闘ってきたことを知るのです。皆さんはこれを骨身に染みて、感じなければならないのです。