震災から三日目 

僕ら家族は合流することができた。

 

たくさん話し、たくさん笑い、安心を感じていた。

その夜は全員で屋根のある家の布団の中で寝ることができた。

 

 

寝る前の暗闇の中ふと考える

 

 

 

被災した中で多分僕ら以上に

こんなに早く恵まれた環境に避難できた人たちはいないのではないか・・・。

 

 

そう思うと、運の強さを感じるとともに、申し訳なさもあった。

 

 

 

 

避難所を巡ったからこそ、どんな人たちがどんな気持ちで

互いの身に寄り添い合ってるのかよくわかる。

 

そことは違う自分たち。一緒じゃないことを不安にも感じた。

 

今自分ができることって何だろう・・。

 

誰のためにどう動こう・・。

 

 

学校もなく、拠点とする場も頂き、今まで打ち込んでいた水泳もなくなり

生きながら抜け殻になった気持ちを抱いたまま眠りについた。

 

 

 

早朝5時目が覚める。

 

今までは大会がある日くらいしか、早朝に起きることはなかったが

夜8時には就寝してるため無理もない。

 

 

 

街全体が停電すると夜を迎えるのが恐ろしく早くなる。

 

夕方5時には薄暗くなり、6時には真っ暗。7時を越えて灯りが着いてる家はほとんどなかった。

 

僕らのお世話になった家でも停電は続き、夜はローソクで夕飯を食べていた。

 

 

 

 

窓を見るときれいな青空が広がっていた。

 

その下に広がる茶色い街並み、黒煙、昨日までいた場所なのに遠く感じる。

まだ続く黒い煙は何を燃やしているのだろう。

 

 

 

下の階に降りると父がいた。

 

また電波を拾えるかの確認をしているのだろうか。

 

 

歯を磨きたい、かすかな希望をもって蛇口を捻るがやはり出ない。

 

軽いため息をついていると、父が

 

「避難所で新聞もらってこい」

 

そう言われ、特にすることのない僕は弟を起こし、のらりくらりと避難所へ向かった。

 

避難所までは歩いて5分程の気仙沼高校の体育館。

被災するまで僕が通っていた高校で、弟が受験勉強をしていたところでもある。

1学年7クラス平均の割と大きな学校で、地域では一番大きな学校だ。

 

体育館は二つあり、どちらも避難所となっていた。

 

弟と通うはずだった高校にまさかこんな形で登校することになるとは・・。

 

新聞がどこでもらえるのか分からなかった僕らは、

とりあえず避難所の中に足を運んだ

 

下駄箱を見て驚いた。

 

新品の靴が所狭しと、置いてある。

泥だらけの靴が当たり前と思っていたからこそ疑問がぬぐえなかった。

 

よくよく見ると、その靴たちにはタグが付いていた。

盗品である。

 

話を聞くと近くの靴屋さんから盗ってきた来たのだそう。

 

しかし避難所にいる誰もがそれを咎めない。

例え学校でも、命や安全に替えられるものがないということだろうか。

 

新聞をもらうとそこには「東日本大震災発生」「震度6強」など

改めて大災害だったことを示す言葉で溢れていた。

 

こんなに大きく報道されても、被災地の人としては実感が涌かないのは

きっと言葉で表せない体感があるのだと思う。

 

 

家に戻り父に新聞を渡す。

 

家族は無事、新しく拠点も見つかったものの、自宅もなくなり、学校も行けなくなり、

どうしようもない虚無感に駆られていた。

 

何をしたら良いんだろう。

何かすることはないか。

 

そう思っていると母から「家の金庫探しに行くから手伝って」と相談を受けた。

 

実は両親金庫を三階に備えてたらしく、家の中から探し出そうというのだ。

 

僕と弟は二つ返事で着替え始めた。