まさか前回の記事の次に、こんなことを書くことになるとは思ってもみませんでした。
7月1日、父が永眠いたしました。
一時期ICUにまで入り、綱渡りのような治療を受けながらも、
病院内を歩き回れるぐらい元気になった父。
医師からのお墨付きをもらって堂々と胸を張って退院してきたはずなのに。
退院して10日目の6月30日の朝、母からの電話で起こされました。
「父の様子がおかしい」
昨日まで歩いていたのに、今日になったら全然歩けず、
しかもお腹を壊しているし足に妙なむくみがある、とのこと。
退院してからも持病の処置の為に1日おきに通院していたのに、
急に様子がおかしくなったようでした。
父は病院に行くことを拒んでいたようですが、前回の件もあるので無理にでも連れていくように指示。
救急車で運ばれたのは偶然にもいつも通院していた病院でした。
状況に変更があるたびに何度も電話をもらっていたけど、
再入院かな…って思いました。
4月に父が罹った病気は、体調によって再発し、入退院を繰り返すのだと知っていたからです。
血液検査の結果、とても個人病院では対応できない状況になっている、とのことで、
前回のように国立病院に移送されることになった、と連絡がきました。
旦那クンに朝からあったことや状況を話しながら、
遅いブランチが終わろうとしていた頃、再び母から電話が。
「命が危険な状態になっていて、数日の命かもしれない。
会わせたい人がいるなら今のうちに、と言われたから早急に来てほしい」
先日まで元気に歩いていた、って聞いてたよ…?
退院してまだたったの10日だよ…?
それなのに数日の命って何…?
喪服の準備を含めた荷造り、ネット回線の申し込み、
旦那クンと冷静な話をしながらも、現実味のない他人事のような感覚で荷造りを済ませ、
二人で家を後にしました。
バスに揺られて新幹線に飛び乗って。
在来線に乗ってタクシーで病院に向かうと、
酸素マスクをつけながらも元気そうな父の姿がありました。
持病があるので呼吸が苦しそうだし、すっかりやせ細ってしまっていたけど、
目の前にある命がカウントダウンを刻み始めているとは到底思えないぐらい。
深夜近くになって、以前の副主治医が血液検査のデータを見せながら説明してくれました。
血圧が下がっているし心臓も弱っている。
あちこちの臓器が異常をきたし、腹水もたまっている。
血液検査での数値が通常の人がならば1ケタのところ、父は4ケタを示している、
とのこと。
つまりは敗血症というショック状態になってしまっている様子。
原因は分からないけど、どうやら腸が悪の根源になっているようなので、
開腹してみないとはっきりとは分からないけど、
もはや手術に耐えられる状態になっていない、
とのことでした。
今は元気そうに見えるし、朝までは大丈夫だろうけど、
急激な数値の上昇から見てあと1日か2日ぐらいだろうから、
遺言があれば聞いてあげて下さい
そうはっきりと言われました。。
それは父に「残された命が残りわずか」だと告げること。
本当のことを告げるのが良いか悪いか、母を含めた3人で話し合い、
真実を伝えて出来ることを叶えてあげるのが幸せでは?ということになりました。
病室に戻ろうとしたときに廊下でばったり出会ったのは主治医。
主治医からも父の状態を告げられ、余命についての話もしました。
副主治医は真実を伝えることを進めてくれたけど、
主治医は「それは残酷ではっきりとは伝えられない」と。
もちろん私たちからも伝えられません。。
主治医は緩いニュアンスで父へ伝えてくれたけど、
結局それは父に伝わることはなく。
私たちも改めて真実を伝えることは出来なくなりました。
病室にずっと残っていると父に疑いを持たせてしまうかもしれない。
今日のところは一旦帰ると伝えると、帰り際に父が言いました。
「明日来るときラジオを持ってきてくれるか」
父はTVよりもラジオが大好きで、入院中ずっと毎日のように聞いていました。
それはもう朝から晩まで、時には聞きながら眠ってしまうことも。
私たちが真実を伝えられず苦い顔をしているのに、なんてのんきな。。
二つ返事をして病室を後にしましたが、のちに私が父の言葉を聞いた最後となりました。
家に戻ってシャワーを浴びて。
翌日以降はいつ寝られるか分からなくなるかもしれない。
母も私たちも早々に布団に入りました。
部屋の明かりを消して布団に入ると、ごくごく小さな音が耳に入ってきます。
もしかして母の携帯の音?と思い、ドアを開けてみてもそれらしい音はせず。
音のする方向は空地だし、深夜1時を過ぎているので誰かが外で話している可能性も低いし。
「なんか、ラジオのような音がする」
私はとっさに、父だ!と思いました。
音のする方向を探ってみると、それはラジオと一体型になったデジタル時計。
私はこの時まで、その時計にラジオの機能があることを知りませんでした。
ずっと前からこの時計がおかれた部屋は、私たちが帰省するときに使わせてもらっていましたが、
それは以前父が寝ていた部屋でもあったんです。
ラジオの止め方が分からない旦那クンが周波数を少しずらすことで音を止めました。
旦那クンは超常現象など一切信じないので「知らないうちに誰かが触ったんだろう」
と言っていたけど、私はそれが父の仕業に思えて仕方がありませんでした。
翌朝6時過ぎには先に病室へ向かった母。
父とたわいもない会話をしていたそうです。
私たちも早々に病院へ向かう準備をしていた8時頃から、父の意識が朦朧として来ていました。
病院に到着して夢と現実の狭間にいる父に話しかけると、現実の世界に戻ってきて。
時間が経つにつれ、混沌とした意識の中へ落ちていく時間が長くなりました。
話しかけると何かは話すけれど、だんだん聞き取れなくなってきて。
看護士さんたちがケアしてくれる間に私たちが病室を離れたお昼過ぎ、
何の心の準備もないまま看護士さんたちに呼ばれ。
父はいつどのタイミングで息を引き取ったのか分からないけど、
穏やかな表情で眠るようにこの世を去っていきました。
母から「来てほしい」と連絡を受けて、ほぼ24時間後のことでした。
遺体を自宅まで運び、葬儀屋さんと打ち合わせて親戚も帰って行ったのはまだ夕方の事。
父が昼間に息を引き取ったのは、一つの思いやりだったかもしれません。
連日親戚がお線香を上げに来てくれ、慌ただしい毎日でしたが、
4日にお通夜、5日に告別式を行いました。
自分たちらしい葬儀をしよう、ということで、こじんまりとした家族葬で、
出棺時には父の大好きなポール・モーリアの曲を流して。
踊りだしてしまうぐらい大好きだった曲に送られ、父も嬉しかったことかと思います。
旦那クンは1週間ほどで先に戻りましたが、
母一人にすべてを任せておいていくわけにもいかず、私は暫く残ることにしました。
落ち込んでいる母を励まし、食事を作って食べさせて。
法要の相談に乗り、仏具店をめぐって、拝んでもらったお寺を観に行ったり。
各種手続きも片っ端から片付け、書類の為に市役所を5か所もまわったり。
3週間余り滞在しましたが、何もせずに終わった日などないほど、慌ただしい毎日でした。
手続き用の書類の準備のため数日前に帰宅したところですが、
帰宅しても現実から目を背ける事にはなりませんでした。
母を励まして支えなくては、と常に気にすることがなくなった今、
ふと取り止めのない哀しい重い気持ちに沈んで行ったり、
訳の分からないイライラに襲われたり。。
早すぎた父の死とはいえ、自分なりに親孝行も出来たし、
私なりに思い残すことはないけれど、それでも割り切れないものがあります。
父と私は血のつながりはないし、父親らしいことをしてもらったことも全然ないので、
限りなく近い他人のような見えない壁のようなものを取り除くことは出来なかったけど、
それでも30年近く重ねてきた時間は、やはり「家族」だったのだな…と痛感するのです。
長い闘病生活に振り回されてきた母には、父の存在が大きく、
虚脱感は私の比ではありません。
だけど、だからこそ、残りの時間を自分の為に生きてほしい、そう心から思います。
残された家族のことを全く心配せず、自由奔放に駆け抜けた父。
まだ涙が出そうになる時もあるけれど、
そのうちきっと笑顔で懐かしむことが出来る日が来るよね。
だから、さらば。
