孝庵医師、棟梁、仕事仲間、お鶴らの支援を受け、熊五郎はパチンコ依存症からおおよそ抜け出せていた。完全ではないが、パチンコの誘惑に対する強い欲求が少なくなり、日常生活において平穏を取り戻しつつあった。熊五郎は、これが新しい生き方だと実感しつつ、仕事に励んだ。

そんな依存症から抜け出す過程で、熊五郎は家族との絆を取り戻すことがなにより大切だと気づいた。これまでの自分を変えようとする努力を、出て行ったきりのせがれへ示す必要があると思った。和解を試みることにした熊五郎は、長らく疎遠だったせがれに手紙を書いた。謝罪の言葉と共に「お前に何もしてやれないだめな親父だったが、一度会ってくれねぇか」と願いを込めた。最初は何の返事もなかったが、数日後、せがれからの返事が届いた。そこには「俺ももう一度話をしたい」と書かれていた。

ある日の夕方、仕事終わりに「熊五郎、お前さんにいい知らせがあるぞ」棟梁が熊五郎を呼び止めた。「さっき、日本橋の組合長が見えてな」棟梁は笑みを隠しきれないでいた。

「お前さん、『深川大工お客様満足度コンテスト』への出場権を獲得したんだ」

 

熊五郎は驚き、信じられないという表情を浮かべた。「あっし、あっしがですかい。コンテストに」熊五郎の声が震えた。

 

「そうだとも。お前さんの技と先日の大口の受注が認められたんだ。江戸中の大工で競うコンテストだ。出場だけでもえらいことだ」棟梁は誇らしげに言った。

 

そしてお天道様は見てるんだなと呟いた。

 

終わり

 

数日後の夕方、塩谷和夫は無意識のうちに家を出て、街を歩いていた。どこへ向かっているのか、自分でもよくわからなかった。ただ、頭の中に響き渡るパチンコホールの音と光に導かれるまま、足が自然と動いていた。

ふと、横断歩道の向こうにパチンコ店の電飾が見えた瞬間、和夫の体はそちらへと動き出してしまった。何も考える余裕はなかった。頭の中はパチンコのことでいっぱいで、理性は麻痺していた。赤信号にもかかわらず、和夫は足を止めることなく前に進んだ。目の前にはパチンコ店の光が一層強く輝いていた。次の瞬間、大きな衝撃が和夫の体を襲い、彼はその場に崩れ落ちた。頭の中で鳴り響いていたパチンコの音は静かに消え去り、和夫の視界は暗闇に包まれていった。 終

 

塩谷和夫は、日常生活の中で異常なほどの緊張感を感じるようになった。食事中でも、テレビを見ている最中でも、頭の中にはパチンコホールの映像と音が浮かび上がり、脳を支配するようになった。外を歩いていると、ふとした瞬間にパチンコ店の電飾が目に飛び込んできて、体が自然にそちらに引き寄せられるような感覚を覚えた。

そんなある日、和夫は銭湯で体を洗っている最中にも、玉が転がる音が耳元で鳴り響くように感じた。「俺は狂ってしまったのか」と自問自答するが、その疑問はすぐに頭の中で打ち消された。「パチンコをやめればいいだけだ」と思う一方で、「もう一度だけ行けば、この苦しみから解放されるのではないか」という誘惑が頭をもたげる。

次第に、和夫の理性は崩れ始めた。彼は自分自身に対してすら嘘をつき、パチンコに行きたいという欲望を正当化するようになった。そして、ついに彼の心は、完全に欲望に屈してしまう。

 

熊五郎の努力と周囲の支えのおかげで、彼は少しずつ離脱症状から抜け出しつつあった。完全に消えたわけではないが、以前のように激しい欲求に振り回されることはなくなっていた。「今度こそ、俺はやり直せるかもしれない」熊五郎はそう信じるようになっていた。

お江戸ギャンブル依存症支援組合の孝庵医師のもとでのカウンセリングや、日々の「五覚修行」と木工療法は、熊五郎の心を少しずつ癒していった。彼は、体を動かすことや手先を使うことで、心の中の不安を取り除く方法を学んだ。木を削り、彫刻を施す作業が、彼にとっての瞑想のような時間となっていった。

「パチンコの誘惑はまだ感じるが、それでも以前よりも強くはない」熊五郎はそう感じるようになっていた。彼の中には、新たな感覚と意志が芽生えていた。「もう一度、人生をやり直すためには、今までの自分を乗り越えなければならねぇ」と誓った。

周囲の支えも、熊五郎の回復に大きな力を与えていた。棟梁は熊五郎を励まし続け、「お前さんの努力は皆見てるんだ。これからも精進しろ」と声をかけてくれた。仲間たちもまた、「熊さん、これからだぜ。俺たちがいるんだ、頑張ろうな」と、常に応援してくれた。

「お鶴、最近どうだ俺、少しは変わったか」と尋ねると、お鶴は「そうさね、前よりだいぶ落ち着いた顔してるじゃないか。まだまだこれからだけどね」と微笑む。

「お鶴、これからもうちのことは任したぜ」と、熊五郎が笑顔で言うと、お鶴も「しょうがないねぇ、仕方ないから付き合ってやるよ」と冗談混じりに返す。

こうして、熊五郎は完全とは言えないが、離脱症状から抜け出し、新しい自分として生きるための第一歩を踏み出していた。彼の中には、依存から解放されるための強い意志と、それを支えてくれる周囲の愛情が存在していた。

 

熊五郎の姿勢は、周囲の人々にも少しずつ変化をもたらしていた。彼が本気で依存症から抜け出そうと努力していることが、仕事仲間たちにも伝わっていた。「熊兄い、最近なんだかんだいい顔してますぜ」元々腕が立つ職人だった熊五郎のそばには後輩職人も集まってくるようになった。

仕事場での作業が進む中、熊五郎は次第に仲間たちとの絆を深めていった。「熊さんよ、そっちの仕事はどうだい、手を貸そうか」と、一人の仲間が声をかける。「いや、大丈夫だ。自分でやってみるよ。でも、ありがとな」と熊五郎が返すと、仲間たちは笑いながら「いいってことよ。お前さんが頑張ってるの、俺たちも見てるんだからさ」と励ます。「熊さんが本気で頑張ってるのが伝わってくるからな、俺たちも協力してえんだ」と、仲間たちは口々に言った。

そんな日々が続く中で、熊五郎は次第に「自分は一人ではない」という感覚を取り戻していく。これまで感じていた孤独感が少しずつ薄れていき、彼の心には新たな希望が芽生えてきた。

仲間の一人は、もしまた辛くなったら俺たちに話してくれ。俺たちはいつでも味方だぜと声をかけてくれた。その言葉に本当にありがてぇと、熊五郎の胸は熱くなった。熊五郎は、これまで自分が孤独だと感じていたのは、自分自身が心を閉ざしていたからだと気づく。「一人で戦う必要なんてなかったんだ。みんながいるんだ」と、彼は心の中で何度も繰り返した。