怪物の証明。自分が高校入学当時に気に入っていた言葉だ。
自分の記憶に間違いがなければゴルファーの松山英樹選手がインタビューで言っていたような気がする。もしかしたらテレビ局が勝手に出したテロップかもしれないが、どちらにせよ彼がアメリカツアーに挑戦する際の記者会見を見たときに知った言葉だ。
なんと素晴らしい言葉なのだろう。当時中学生だった自分は心を震わせたのを覚えている。もちろん松山選手の覚悟のかっこよさもあったからなのだが。
国高で何をしたいのか?という質問は家族や親戚からよくされたものだ。言葉では「部活と文化祭を頑張る、もちろん勉強も」と答えていたのだが、頭の中では「怪物の証明だ」と唱えていた。今思えば相当傲慢な回答だと思う。それでも『怪物の証明』という言葉の力強さに魅せられていた自分は、しきりにこの言葉を思い浮かべていた。
ここまで読んでわかったとは思いますが、結構飾ったような文章が続きます。そういうの読みたくないよっていう人は無理せず読むのをやめてください。ごめんなさい。本当に。
さて、怪物の証明とはいったいどういう言葉なのだろうか。”証明”ということは自分が怪物であることをどこかあらかじめわかっているような響きが感じられる。
今でも自分のことを怪物と認めてくれる人はいるが、そうでない人もいる。だから認めていない人たちに対して「な?怪物だっただろ?」と叩きつけたい。そんな言外の意味を自分は感じていた。つまり、この言葉を真の意味で使いこなすためにはどこかで自分は怪物だと感じている必要があると思う。あれだけ注目されていた松山選手は、もちろん自分のことを怪物級の選手だと感じていたことだろう。
高校に入る時の自分は、自分のことを怪物だと感じていたし、それは間違いではなかったと思う。しかし、それは自分だけが特別だったと言うわけではない。周囲も含め、怪物まみれだったのだ。そして、怪物とは怪物であるかどうかを証明しなければいけない運命のようなものを背負っているとも感じた。秀でた人は嫌でも注目を集めるし、その人の行動やら業績やらをもとに周りの人たちが勝手に証明を進めていってしまうのだ。「あいつは最初はすごかった」だとか「初めて会った時は天才なのかと思ってた」だとか。もちろん「あいつはやっぱりすごかった」とか「最初は全然だったのに」とか言われている人もいるのだが。
怪物の証明が進んでいくと、どこかで自分は怪物ではないと気づく時が来る。そうなったら今まで堂々と持っていたにしろ、密かに隠し持っていたにしろ、怪物の看板を下さなければならない。今まで軽々と背負えていた看板は、自分は怪物だという自覚がなくなった瞬間とてつもない重みでその身にのしかかってくる。看板を持ったままでは足は動かなくなり、他の怪物たちの背中を睨み付けることしかできなくなってしまう。
自分がこれまでの人生で怪物の証明ができたとは到底思わない。看板に押しつぶされるかもしれないと感じたのだって、一度や二度のことではない。それでも自分は看板を下ろすことなくここまできてしまった。怪物の称号が諦めきれなかったのだ。そして少なくとも自分の周りにそういう人は決して少なくない。自分の周りには怪物の看板を背負っている人はごろごろいる。自分では自覚はない人もいるだろうが、それでも彼らは怪物の証明の途中なのだ。
きっとこの証明が『この人は怪物でした。 Q.E.D.』という形で終わることは当分ないだろう。でも人生は長い。余白が足りなくなることもまたないはずだ。いつか自分の怪物の証明に終わりは来るのだろうか。その時に看板を捨てなければならないのか、高々と掲げられるのかは今は全くわからない。ただ、今のところ看板に押しつぶされる気配はない。だからしばらくは看板は降ろしそうにはない。『怪物の証明』という道はまだまだ長く伸びているのだから。