(5)
生き物というのは、死期を悟ると我が遺伝子をこの世に残しておこうという意欲が旺盛になる。これも本能の成せるワザなんでしょうね。

小林秀雄が生前、老桜の名木があるから見に来てほしいと請われ、友人と一緒に足を運んだ。その年はまた満開の花、花、花。美しさも格別だった。

後でその桜が枯れ死にしたという報せをもらった小林秀雄は、ああ、あれが死に花というものだったか、さすがに見事だったと感慨に耽ったそうです。

モモジもパッと死に花を咲かそうとしたんでしょうね。盛んに隣りの房に行きたがる。行かしてやりたいのは山々。でも人気者のモモジを何かの不注意で死なせるわけにはいかん。世話係も大いに悩んだ。悩んだ挙げ句、腹上死のリスクも考えて、モモジの老いらくの恋にストップをかけた。

モモジ,哀愁の後ろ姿


哀れ、秋風よ。ココロあらば伝えてよ・・・モモジは涙をふるって旅に出る決心をする。西行法師みたいな心境だったでしょうね。

今宵 逢瀬を待ちわびる 君の幸せ祈りつつ 旅に逃れる 哀愁列車(生前、モモジが愛した歌謡曲,哀愁列車の一節です)

コアラは夜行性。だから夜行列車ですね。モモジは夜汽車に乗って動物園をひとりで、いや一匹で去ってゆく。

いやぁ。また涙が止まらなくなった。

なんて感動に浸ってる場合じゃない。モモジと雌コアラの恋。実らなかったはずなのに、それから数週間後、雌コアラの様子に異変。妊娠の兆候。

はて? コアラの世話係は首をかしげた。

(6)
モモジが動物園を去ったなんて事実はありませんよ。あくまでモモジの心象風景をワタシが勝手に想像しただけです。それに、乗るとしたらお猿の電車に決まってますよね、動物園なんだから。

さてと。モモジが塀を越えて隣の房に行けるはずはない。そんなに簡単に行ける なら、そもそも塀の用をなさない。

では雌コアラをいつのまにか妊娠させた強(ごう)の者、いや強のコアラは誰か。

普通、コアラの繁殖には人手が必要だそうです。サラブレッドのように人が手伝 ってやらないとうまくいかない。

ところがプレイボーイのモモジは違う。ほかの雄よりも体が大きくて美形のモモ ジは繁殖用としてあちこちの動物園に貸し出されていた。習うより馴れろ。モモ ジはいつかコアラ界では名うての寝業師として知られるようになる。人の手助け なしで起承転結、惚れ惚れするような模範的交尾ができたそうです。

犯人、いや犯コアラはモモジ以外にない。飼育係は確信した。ではモモジはどう やって房を隔てる塀だか壁だかを乗り越えたのか。

飼育係が家政婦だったらねぇ。現場を見てたかも知れないんですが、彼は見てな かった。しょうがない。飼育係を始めとする動物園の関係者はさっそく調査を開始した。

コアラには人間と同じように指紋があるそうです。で、塀だか壁だかに付いている指紋を調べた、ンなことないか。

仮に本当に調べたとしてもですよ。もともと繁殖期には行き来してるわけですか らね。モモジの指紋は隣りの房にベタベタ付いてたでしょうね。[続く]