メイキング・オブ・ザ・ストーンローゼス
Q Magazine-2000年4月号からの翻訳

だぶだぶのジーンズに鉢型のヘアカット。フライ・フィッシ ングの時にかぶるみたいな可笑しな帽子。人生の冒険に乗り出したマンチェスタ ーの4人組がロンドンの北東部に着いたとき、すべては始まった。

1日に10時間も仕事をし、作ったデモテープを"いい仕上がりに"してもらうために手渡した。その相手がピンク・フロイドのプロデューサーだった。

●Roddy Mckenna(A&R:Zombaレコード):
「ゾンバはポップスやR&Bでかなりの成功を収めてたんだけど、僕はロックの方面にも手を伸ばしたくてね。そのために独立したレーベルを作りたかった。それがSilvertoneさ」

「僕たちがストーン・ローゼスと契約できたのには理由があるんだ。最初、ある人がウェールズにいいバンドがいるよって、こっそり教えてくれた。この目で見てみたら、なんか二流のU2フォロワーって感じで好きになれなかった」

「で、車に乗って家に戻ったんだけど、なんか落ちこんだ気分だった。前に送ってもらってたデモ・テープを車のカセットで聞いてみるまではね。そのテープに入ってたのがストーン・ローゼズの曲だったんだ。すごく気に入っちゃってね。 ロンドンに帰る途中、ずうっと聞きどおしだった」

「それで僕は彼らに会いにマンチェスターに出向いた。で、街のクラブの向かい にある彼らのマネージャーの事務所でメンバーに会った。ゾンバにはSamantha FoxとかBilly Oceanのようなアーチスト、ジャイブみたいなのが多いだろ。だから最初、僕たちと契約するのはあまり乗り気じゃないみたいだった」

「僕はそれに気づいたんで、ポイントを突いてみた。うちの会社にくれば、君た ちは唯一のロック・バンドだ。僕はきっと君たちのために全力投球できるはずだ よ、ってね。僕は契約だけじゃなく、そのままアルバムを出すところまで話を持っていった。Rough Tradeに傾いてた彼らの気持ちをこっちに戻すのに役立つと思ってね。ラフ・トレードは後になって彼らと契約しようと頑張ったようだけど 、結局、一枚のシングルしか出せなかった」

●Ian Brown:
「俺たちはもともとラフ・トレードのために「Elephant Stone」をレコーディングしてたんだ。そのあと、もっと長い8曲のLPを出すという条件でゾンバが割って入ってきた。それで俺たちはゾンバを選んだってわけさ」

●ロディー・マッケンナ:
「"Elephant Stone"をプロデュースしたのはNew OrderのPeter Hookだった。僕 はバンドと契約すると、すぐに曲のミキシングのためにJohn Leckieを引っぱりこんだ。ピンクフロイドとやった彼の仕事にはいつも感心してたからね。ハートはシンプルだし、そのほかにも色々と良いところがある。プロデューサーとして僕の頭に最初に浮かんだのが彼さ」

●Andrew Lauder(MD:Silvertone Records):
「シルバートーンはべつにストーン・ローゼスのために作られた会社じゃなかっ た。僕は最初、自分のロックの経験をなんとか役立てたいってゾンバと話してたんだ。それなら新しい旗印のもとで出発したほうがいいに決まってるだろ。それでシルバートーンの社名を提案したんだ」

「実のところ、それはバンドと契約したその日だったんだ。1988年4月18日だっ た。ゾンバの連中は僕にこう言ったよ。たったいまストーン・ローゼズと契約したんだけど、これは新しいレーベルにとって理想的かもしれないよ、ってね。それで僕は試しにデモ・テープを家に持って帰ったんだけど、ほんと、すぐに気に入ったよ」

●イアン・ブラウン:
「契約したのは4月だった。そのあとすぐに俺たちは、"Bye ByeBadman"、"Shoot You Down"、それに"Elizabeth My Dear"を書いた。契約書にサインしてから数週間で俺たちはファースト・アルバムの曲の大半を書いたってわけさ。俺たちは会社にフキまくってたからね。ざっと30曲から40曲のストックがあるってゾンバには言ってたんだ。だけど実際は8曲ぐらいしかなかったんだよ」

●ジョン・レッキー(プロデューサー):「僕は彼らのスタジオ入りが待ちきれなくてね。あれはバンドにとってジャスト のタイミングだった。これは間違いなく特別なものになるぞ、って感じたね。デモ・テープは強力で、最終的に完成したレコードとほとんど変わらない出来映えだった。僕の仕事はそれをちょっとトリミングするだけだった」

●アンドリュー・ローダー:
「レコーディングの最初のほうはバッテリー・スタジオでやったんだ。60日ぐらいだったね。そのあとロンドン北部のMaybury Gardensで仕上げた。スタートは6 月17日だった。僕らがここを選んだのはゾンバの所有だったからさ。シルバート ーンは出来たばかりでね。ゾンバの駐車場に建てられてたプレハブの外で仕事を してたんだ。だから僕は進行がどうなってるか見るために、好きな時にちょこちょことスタジオを出たり入ったりできたんだ」

●イアン・ブラウン:
「いい時だったね。俺たちはロンドンにいた。レコーディングは夜中にやってたんだ。それで朝の7時にタクシーで帰るのさ。俺たちはみんなでKensal Riseの家に住んでいた。文無しでさ、会社は食いぶちだといって1日に10ポンドくれるんだ。それで十分だった」

●ジョン・レッキー:
「この頃になると例の宣伝ってやつがどっと出てきてね。酒だの、ドラッグだの 、セックス狂のフーリガンだの。本当の彼らはそうじゃなかった。彼らより僕の ほうがビールを飲むくらいさ。イアンはビールを飲まないし、変わったワイン・ グラスを持ってるけど中には食べ物が入ってるんだ。ウィスキーのボトル1本、 置いてなかった。ジャック・ダニエルとか、そんな類のもんはね」

●John Squire:
「アルバムはほとんどSSLのデスクでレコーディングされたんだ。そのせいで肉付けもハードさもイマイチの感じだった。ギターに関して言えば、僕のアプロー チは大変な失敗だったと思うね。僕はライブでプレイしてたものを完全に元に戻 して、スタジオ用に何もかも書き直した。おかげでずっとそれらしくなって、少 しシンプルな感じがでた。だけどコードの部分からソロへの転換がうまくいって ない感じなんだ。あのアルバムは本物のギター・プレイヤーの感じが刻印されてないって気がする。幾つかのソロを別にしてね。2つのギター・バンドがいるみたいだ。ホントはそうじゃないのに」

●ジョン・レッキー:
「ものすごく印象的なバンドだった。メンバーの4人全員が特別さ。いいドラマ ー、いいギタリスト。彼らがあらゆるサウンドを引き出してくる。メインはブリ リアントなベース・プレイヤーで、彼がすべてをサポートする。その化学反応は 正確無比だ。ホント、興奮したね。実際、コントロール役なんていないんだ。4 人ともお互いに関してすばらしいポジティブなフィーリングを持ったイコール・ パートナーなんだ」

●Ian Brown:
「レッキーは"Waterfall"を聞いて、Simon and Garfunkelみたいだと思ったんだ ろうね。それで彼はベースとドラムを下げたんだ。The Byrdsとか、60'sの感じ を彼は目指したんだろうな。でも俺が聞いた中じゃ、 Maniは白人では最高のベ ース・プレイヤーだ。だからレコードでは彼の音をもっと強調したいと思ったん だ」

●ジョン・レッキー:
「"Don't Stop"って曲。あれは簡単に言えばね、ジョンがPortastudioで試し た"Waterfall"のオリジナルのデモ・テープの2つのトラックを逆まわしにしたも のなんだ。彼らは僕の前にやってきて、それをプレイしてみせた。僕はすぐ言っ たよ。これはレコードに入れなきゃ、ってね」

●ジョン・スクワイア:
「あれは"Waterfall"のテープを逆まわしにしたところにバス・ドラムが誘発さ れて入ってきたものなんだ。本当にオーバーダブしてるのはボーカルだけ。それ にちょっとカウベルの音が入ってる。僕は"Waterfall"を逆まわしにして聞きな がら、ボーカルはこう言ってるみたいだな、と思ったことを書いていって詩にし たんだ。面白い作業だったよ。なぜって、曲から自分自身の関与を取り除くよう なもんだからね。次に何がくるのかまったく分からないんだ」

●イアン・ブラウン:
「あれは偶然だったんだ。逆まわしに聞いたらいい感じでね。LPの中の俺のお気 に入りだな。最後の20秒。あれはキラーだね。ちょっとしたリズムが入ってくる んだけど」

●ジョン・レッキー:
「あれは最大の問題の種だった。ある曲をレコードに入れるかどうかというのは 何時も大きな問題だけどね。あれはライブでは凄くうまくいってた。大げさかも しれないけど、どんどん速くなっていって、ちょっとNirvanaみたいな感じにな るんだ。でも、あの曲のダイナミックスを正しいものにするために、そしてスピ ードの変化をスムーズなものにするために、僕たちは本当に頑張らなきゃならな かった」

「"I Am The Resurrection"も少し時間がかかったね。アルバムを終わらせるた めの叙事詩みたいな曲が欲しくてね。あれはライブの終わりを飾ってた曲だった 。僕たちは巨大なクレッシェンドを、文字どおり、ひとつひとつ作っていったん だ」

●ロディー・マッケンナ:
「リハーサルをやってると、セットの終わりに近づくにつれて、彼らはどんどん クレイジーになっていってね。なんか"Sympathy For The Devil(悪魔を憐れむ歌 )"みたいな感じだった。それで僕は、ラストのジャムを独立のトラックに入れた らどうかっていう案を出したんだ。たしか彼らはロンドン北部のどこかのスタジ オで"I Am The Resurrection"のデモを作ってたんじゃないかな。いい感じに仕 上がってたよ。でもエンディングを後でやってみるといい感じが出ないんだ。で 、僕はエンディングはデモから取ったらいいんじゃないかって提案したわけさ。 完成したLPの中の"I Am The Resurrection"の終わりにはそれを使ってるんだ。 うまくいったよ」

●ジョン・スクワイア:
「テープでは少しやり残したところがあった。で、僕たちはまさにぴったりのタ イミングでそこに入れたんだ。ちょっとしたリズム・ギターを、終わりの部分に ね。ジャングリーなアコースティックも入れた。僕はこれをちっちゃな携帯ラジ カセに録音しておいた。そしてエンジニアにミックスしてもらったんだ。いざ録 音の時はちょっと時代遅れな気分がしたよ。だって僕たちはプレイ・ボタンを押 しただけだった。それで何とか終わりの部分にシンクロさせたんだ」

●イアン・ブラウン:
「レコーディングを終えたのはウェールズのRockfieldだった。4年も失業手当て で食べてたのが、突然田舎のスタジオにこもるようになっちまってさ。そこじゃ 誰かが僕らのために料理を作ってくれるし、ポケットには一杯の葉っぱだろ。ほ ー、サイコーってなもんさ」

●アン・ウォード(会計士:Rockfield Studios):
「彼らがモンマウスに来たのは1989年の1月5日だったわ。初めて彼らに会ったと きは地に足のついた人たちって感じがしたわね。彼らにとってここは第2の故郷 になったわ。ホントよ。2枚目のアルバムを作るためにここに戻ってきたとき、 最初は2週間の予約だったんだけど、それが18カ月の滞在になったのよ」

●ロディー・マッケンナ:
「レコーディングの最後の部分はロンドンのKonk Studiosでやったんだ。スター トは1989年の1月23日だった。僕はそこで一日、彼らとビリヤードをやって過ご した。ジョンはバックルームでギターのパートを仕上げていた。イアンとマニは 聞き慣れないヒップホップやハウス、レゲエなんかを聞いてたよ。当時のロック ・バンドにしてはかなり珍しかったんじゃないかな。ストーンローゼスを"ジョ ン・スクワイアのバンド"って決めつけてる人もたまにいるようだけど、彼はみ んなが思うより普通のミュージシャンだよ。ほかのメンバーがいなきゃ、ストー ンローゼスはこんなにオリジナルな存在になってなかったと思うね」

●ジョン・スクワイア:
「僕は"Bye Bye Badman"のギターが好きなんだ。あの曲のギター・パートをレコ ーディングしたのは、スタジオの奥の、ほとんど風の来ない一角だった。エアコ ンとかビルの幹線用のスイッチが並んでるようなところさ。僕は自分のちっちゃ なポータスタジオを持って、そこに座ってギターを弾いてたんだ。ダンポールの 上に腰掛けてね。時間という点ではまさに追い込みの時期だった。でもレコーデ ィングに入ったとき、僕はまだ自分のパートを本当には理解してなかったんだ」

●ジョン・レッキー:
「でもさ、彼はスタジオに入ってくるとあれをワン・テークでやってのけたんだ よ。レコーディングも終わりに近づいてたし、なんとしても仕上げなきゃってい うプレッシャーがあった。もっとうまくやれたかもしれないな、っていう部分も あったと思うよ。でも、それこそがあのレコードを特別なものにしている特徴な んだ。細かい部分やテクニカルなタイトさじゃなくてね」

●イアン・ブラウン:
「俺たちがレコーディングを終えたとき、レッキーは言ったよ。『これはホント にいい。君たちはきっと成功する』って。そのとき、俺は覚えてるんだけど、ち ょっと考えてから『分かってるよ』って答えたんだ」

●Mani:
「今じゃ沢山の人が僕を通りで呼び止めて、こう言うんだ。『ありがとう、僕の 人生を変えてくれて』とか、『僕たちもレコードを作ったよ』とか、そんなふう なことをね。台風の目の中にいると、時々、みんなに対して、みんなの音楽に対 して僕らがどんな影響を与えてるのか、よく分からなくなるね」

[完]


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