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寺内タケシとバニーズ



『レッツゴー運命』という曲は、言ってみれば『ロールオーバー・ザ・ベートーベン(ベートーベンをぶっ飛ばせ)』に対する寺内タケシ兄貴の回答ですね。ぶっ飛ばせのほうはチャック・ベリーの曲でビートルズがカバーした。

ジャジャジャジャーン、ジャジャジャジャーン。ベートーベンの交響曲第5番。運命はかくのごとく扉を叩く。のだそうです。別れたオトコがヨリを戻そうとしてアパートのドアを叩いているのではナイ。

この誰もが知るクラシックの名作のメロディーを寺内兄貴のエレキが華麗になぞってゆく。

ホラホラ、聞いてる? オトーサン。エレキって不良の楽器じゃない、立派な音楽だろ?

当時の全国のハイティーンがですよ。茶の間で額に皺を寄せながらテレビを見ているオトーサンに無言の声をかけていた時です。

なな、なんと。
なんと・・・・・

プッツーーーン。弦が切れた。ネックのところから。

前に書いたように当時はビデオがない。テレビ番組はすべて生です。カラー番組なんてほとんどない。モノクロですが、目をこらすと透明な長い弦がぶらぶらしてるのがはっきり見えた。そりゃぁ、もう。日本中が固唾を飲んだ。

司会者の狼狽した顔が映る。オワタな。終わった。ワタシは思った。日本中がそう思った。

ところが世界の三大ギタリストはやっぱり違う。フツーじゃない。なんと。寺内兄貴は弦が一本足らないギターを操ってそのまま運命の演奏を続けたんですねぇ。コトモナゲに。

いやぁ。スゴカッタ。後年、ギターの弦が切れても演奏を続けるギタリストを見たことがありますが、このときほど感動はしなかった。なにしろ誰でも知ってるメロディーですからね。ゴマカシがきかない。

バイトをしている頃、北海道から出てきたという男と話をしている時、たまたまこの話になった。

「あれはスゴカッタなぁ。さすが世界第9位。オレもそう思ったもん。北海道じゃ、あのころ中学生や高校生だった人はみんな知ってるよ。アレを。いやホントに。北海道なんて民放は一局しかないからさ。みんな見てたもの。いや極端な話ね。クマとかキツネだって知ってる。北海道はヒトが少ないからさ。ははは」と彼。

ワタシも登別の熊牧場のヒグマに聞いたら、ホントに知ってました。なーんて。ワタシ、北海道に行ったことありません。皆さーん、いつか一緒に行ってヒグマに聞いて確かめましょうね。




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前々回の記事のトップにシャープ・ホークスの『ついておいで』のジャ ケットの写真を使いました。それから1週間後ぐらいかな。NHKの衛星放送でグループサウンズ特集をやった。これにシャープ・ホークスが出て 『ついておいで』を歌ってましたね。安岡力也さんは入院中とかで出なかった。残念です。だいぶ太ってましたからね。糖尿病かもしれないなぁ。

バニーズも出てました。ヒット曲の『太陽野郎』をやってましたが寺内兄貴はいなかった。これも残念。

グループサウンズ・ブームの異常な盛り上がりぶり。あれは当時を知る者にとっては忘れられない。60年代はビートルズとグループサウンズと学生運動に揺すられながら終わっていった。そこここに大麻の煙り。そ してLSD。ピンク・フロイド。

グループサウンズという言葉を創ったのも寺内タケシ兄貴だそうです。 以下はウィキペディアの記述です:

グループサウンズという言葉の『元は1965年に寺内タケシが当時のブル ージーンズのジャンルを記者から聞かれた際の「グループ・サウンドだ 」「でもそれだと単数形だからグループ・サウンズのほうがいい」とい うやりとりが最初と言われている』

当意即妙。さすがに自力でエレキギターを作ろうとした人だ。寺内兄貴の座右の銘もまた有名です。『ギターは弾かなきゃ音が出ない』


どうです。非の打ちどころがない座右の銘でしょ。その通りだもの。文句の付けようがない。

寺内兄貴がささっと一筆書きのように命名したグループサウンズ。このブームは実質2年足らずで終わった。馬鹿げた時代のせいで。[続く]



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失神バンド、オックスの神話的アイドル赤松愛


グループサウンズ・ブームは熱狂が醒めて終わったのではない。

葬られた。

権力、新聞、無知無関心な大衆によって。

あのころの新聞にはこんな記事が載った:
『エレキギターは思春期の若者の腰のあたりの神経に響いて有害な影響を与える』

エセ学者のこんなバカ話を大新聞がこぞって載せた。よくもあんな記事が書ける。恥知らずにもほどがある。

タイガースの公演で興奮した少女たちが将棋倒しになって負傷者が出る。オックスの赤松愛の失神パフォーマンスに感染した少女たちが気を失って救急車で次々と運ばれる。そんな事件が背景にあった。

地方自治体はグループサウンズに公演の場所を提供するのを拒否するようになる。高校や中学ではグループサウンズのボイコットが広がる。公演会場の入り口に教師たちが見張りに立つ。熱狂的なブームはこうして終焉を迎える。

グループサウンズの名付け親、寺内タケシ兄貴は当時の状況に歯ぎしりする思いだったはずだ。

エレキギターに罪はない。寺内兄貴はエレキギターの素晴らしさを伝えるために全国行脚の旅にでる。

このシリーズの記事を書いている間にも何人かの読者の方が、“自分の高校にも寺内兄貴が来ましたよ”とコメントをくれてます。


兄貴はエライ。逆境に立ち向かった。ワタシなら兄貴をエレキギターのモーゼと呼んでみたい。事実、紅海は割れた。エレキギターは進む。
[最終回のつもりが終わりませんでした。[もう1回]



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ブラッド・スウェット&ティアーズ



1966年夏のビートルズの来日で火が着いた日本のGSブーム。この未曾有の大ブームが燎原の火のように燃え盛っていた1967年から68年頃まで、イギリスのロック・シーンは不幸な停滞期にはいる。

「俺たちはキリストよりポピュラーだ」の舌禍事件で身の危険に曝されるようになったビートルズはツアーをやめる。ストーンズもバンド内の不和と麻薬事件で活動が衰える。

ミューズの神に愛された金髪の王子、ブライアン・ジョーンズを警察は悪の音楽、ロックのスケープゴートとして追い回した。それは彼がプールで謎の溺死をとげるまで続く。この悲劇は皮肉なことにストーンズを解放するメルクマールになった。

この間、海の向こうではアメリカン・ロックの巻き返しが始まる。いかにもアメリカ人らしい、カントリーとジャズの影響が色濃い音楽がブリティシュ・ロックの白い余白を埋めた。

1960年代の後半。平凡パンチなどではブラッド・スウェット&ティアーズやシカゴ、CCR が盛んに取り上げられたもんです。

彼らの音楽は当時はブラス・ロック、ジャズ・ロックあるいはニュー・ロックと呼ばれましたが、同じ時期、若者のメディアを賑わした日野皓正も当時はニュー・ロックの旗手と呼ばれたりした。実際、私の大学の同級生でアルバイトにナイトクラブでジャズをやっていた男はBS&TやCCRをジャズ・バンドだと言い張ってましたね。

BS&Tは人気絶頂の頃、西側のロック・パンドとして初めてソ連で公演する。このときにボーカルのデレク・クレイトン・トーマスはソ連の国旗の象徴だったハンマーを客席に投げ入れた。

当時の私たちはソ連という帝国が20世紀中に崩壊するとは夢にも思っていなかった。だがソ連が崩壊した今、私は思う。BS&Tは当時のソ連で公演することによって鉄のカーテンを揺るがしただけではなく、あのハンマーはソ連という帝国に見えない亀裂を与えたのだと。

GSブームが一朝の夢のように消えていったあと、寺内タケシ兄貴はエレキギターの伝道師として日本中の学校で公演してまわった。日本だけではない。兄貴はソ連でも何度も公演しています。兄貴のエレキギターもソ連の若者の心に自由の風をもたらした。私はそう思いたい。

私がロック喫茶で働いていた当時、一番人気があったブラッド・スウェット&ティアーズの曲は『スピニング・ホイール』。ではなくて『アイ・ラブ・ユー』だった。私も好きな曲です。このシリーズに付き合ってくれた読者の方へのサービスに動画を貼り付けておきました。

時は帰らず、だ。[完]


I LOVE YOU MORE THAN YOU'LL EVER KNOW

注;この名曲のボーカルは1枚目だけでBS&Tを去った天才アル・クーパーです。

動画と書きましたがやはり当時の映像はなかったですね。曲だけです。60年代末から77~8年頃までは映像氷河期ですからね。ザンネンですが。