(5)

ザ・バーズ


エレキの神様、寺内タケシさんのシリーズを待っていた全国に7人の読者の皆さん。お待たせしました。前回の記事のアップは1月26日ですからほぼ2週間さば、いや2週間ぶりです。

前回の話の内容はもうお忘れでしょうから、この記事のすぐ下に関連の記事と前回の記事を移動しておきました。併せてお読みください。

さて、世界のギタリスト・トップ10などのほかに、当時はユニークなトップ10があった。

それはカスタネット部門のトップ10、

じゃなくて、タンバリン部門のトップ10です。

ロックの歴史をひもとくと確かにタンバリン時代というのがあった。あの時期を地球の歴史に当てはめるとジュラ紀に相当する。いま思えば、あれは人類の一部に起こった地球規模の壮大な退行現象であった。なーんて。関係ないですね。

ミック・ジャガーやエリック・バードンがタンバリンを振り回しているのは皆さんも60年代の映像で見たことがあるはずです。

あれはザ・バーズやボブ・ディランのミスター・タンブリンマンの影響がたぶんにあるのではないか。

ミスター・タンブリンマンというのは麻薬の売人を意味しているというのが定説ですが、当時のロック界がドラッグ漬けだったのはブライアン・ジョーンズやシド・バレットの例を持ち出すまでもない。

あのころロックバンドのボーカルがタンバリンを振り回してたのは自分はドラッグが好きであるというジャスチャー、ある種のメタファーだったのかもしれない。なーんて。強引にこじつけてみました。

さて。ワタシは男子どんどん立て立て派です。おっと、大事なコトバを省略してました。誤解を生みますね。ワタシは男子どんどん厨房に立て立て派で、土曜の夜のテレビ番組「厨房ですよ」をよく見ます。1年ほど前、堺さんがあの番組の中で言っておりました。

「昔さぁ。音楽雑誌で世界のタンバリン奏者のトップ10ってのがあってさぁ。オレ、第2位だったんだよ」
「へぇぇ。すごいじゃないですか。で、1位は誰だったんですか?」
「1位? ミック・ジャガーだよーー」
「えぇぇぇ??!!! ミック・ジャガーの次だったんですか。堺さんスゴーイ」

「スゴイだろぉ。でさぁ。4位が井上順よ。ハハハ。」

[続く]


(6)

ザ・タイガース



タンバリン奏者のトップ10の詳細は残念ながら覚えてません。なにぶん昔のことですからね。ただ、ロックのタンバリン時代が1966年~67年ぐらいの短い期間だったことは想像がつきます。

堺マチャアキさんが堂々の世界第2位だったってことは、このランキングが編集されたのはグループサウンズ・ブームの絶頂期だったはずだからです。

怒濤のグループサウンズ・ブームが巻き起こるのは1966年の下半期です。1966年夏のビートルズ武道館降臨。これは日本の歌の世界に決定的な影響を与えた。言ってみれば隕石が衝突したようなもんです。

この衝撃で戦後の歌謡曲は演歌とJポップという2つのシーンに分裂する 。もはや埋まることのない亀裂だ。

武道館の観客席にはタイガースの沢田研二もテンプターズのショーケンもいた。ブルージーンズのメンバーだった加瀬邦彦さんもいた。ブルー ジーンズは前座で舞台に立ったんですが、加瀬さんはビートルズの演奏 を客席でナマで見たいからという理由で直前にブルージーンズを脱退したんだそうです。これはNHKの衛星放送で言ってました。

その後のグループサウンズ・ブームの立役者はみんな客席にいた。タイガースは当時は大阪のナンバ一番とかいうジャズ喫茶で相当の人気だっ た。そのころのバンド名はファニーズといったらしいんですが、上京し て東京のキー局のテレビ番組に出る直前、関西の出身だからというオオザッパな理由でザ・ タイガースに変えられた。名付け親はドラゴンクエストで有名なすぎやまこういちさんです。

当時、ワタシはよく池袋の文芸座に映画を見に通った。2本で200円でした。地球座にもよく行った。こちらは3本立ての日もあったと記憶する 。

ある日、池袋駅を出るとジャズ喫茶ドラムがあるビルの周りをオンナの コたちが取り巻いている。文字通り、黒山の人だかりです。今ですとサンシャインビルに向かって歩いて量販店のビックカメラがあるあたりですね。ナンダロ、と思って道路をわたって見に行ったらタイガースが出演する日だった。このあとタイガースは天高く舞い上がる。

このタイガースがテレビに登場した最初の頃は、よくバンドのテーマソ ングとしてザ・モンキーズのテーマを歌ってましたね。ヘヘイなんとか モンキース、という出だしの歌詞をタイガースに変えていた。

グループサウンズ・ブームは厳密に言うと1966年の下半期に始まり1968年の上半期に終わる。あしかけ3年ですが、真にブームと言える期間は1 年半ぐらい。このブームは言わば扼殺される。葬られた。

この話はまた別のシリーズで書きます。ここにももちろん寺内タケシ兄貴は登場します。残念なことに脇役ですが。

ところで、1966年はロックにとって重要な年だったと前に書きましたが 、LSDが非合法化されたのも1966年です。この話は最後に付録としてチ ョコッと書くつもりです。チョコの日も近いですしね。
[続く]



(7)

エリック・バードン


寺内タケシ


タンバリン奏者のトップ・ファイブにアニマルズのエリック・バードンが入っていたのは間違いないでしょうね。1965年頃まではミック・ジャガーよりエリック・バードンのほうが人気があった。

ストーンズはビートルズの影。ミックはブライアン・ジョーンズの影にいる。そんな感じだった。ワタシが高校生の頃はビートルズ、ベンチャーズ、ビーチボーイズ、アニマルズのレコードを持っている友達はいてもストーンズのレコードを持ってるのはほとんどいなかった。当時のレコードは高かったですからね。ドーナツ盤と呼ばれたシングルがラーメン4~5杯の値段に相当した。ドーナツとは名ばかりであった。

寺内タケシ兄貴はエリック・バードンに似てます。いや、おそらく兄貴のほうが年上だからエリック・バードンのほうが兄貴に似ている。サスガに兄貴はエライ。

この2人は顔だけじゃなくて経歴も似ています。バンドを作ってはぶっこわす。

寺内タケシとブルージーンズは1962年に結成。その後、メンバーを入れ換えて1964年に再スタート。ベンチャーズのエレキ・ブームの頃です。66年には前に書いたようにブルージーンズを脱退。グループサウンズ・ブームの頃はブルージーンズという名前が使えなくて寺内タケシとバニーズというバンド名で活動していた。

その後、ブルージーンズという名前を返してもらい、1969年から再び寺内タケシとブルージーンズになる。このときはブルージーンズという名前の使用権をめぐって裁判まで起こってます。

この記事を書くために兄貴の経歴をネットで調べていると、なんと、スゴイ情報にぶつかった。

ブルージーンズは1964年には新宿厚生年金会館で初のコンサートを開いた、なんと前座はベンチャーズとアストロノウツであった。 さらに翌1965年はこの3バンドにザ・スパイダースを加えた4バンドで競演、日本中にエレキブームが巻き起こった。・・・・さらにこの年には寺内が「世界三大ギタリスト」に選出されたり・・・・・』

いやぁ。ホントに寺内タケシ兄貴はエライ。
[まだ続く]



(8)

シャープ・ホークス


このシリーズが始まったころにあるブロガーさん、“個人的な交流の話も出てくるのでしょうか。今後の展開も楽しみです”というコメントをくれました。

残念なことに、ワタシは寺内タケシさんとなんの交流も直流もありません。もちろん肉体関係もなし。Aまでです。ナーンテ。

グループサウンズ・ブームが最高潮に達したのは1967年。この年はグループサウンズに明けてグループサウンズに暮れた。どのチャンネルを回してもエレキ・エレキ・エレキです。みんな痺れていた。

NHKの衛星放送で時々当時のグループが集まりますが、面白いエピソードが出てくる。

当時はなにしろみんな若い。人気も絶頂でハイになってます。それに眠るヒマもないくらい忙しいからみんな気がタッテル。テレビ局の楽屋にグループサウンズが集まると、やれ目があった、やれ肩が触れたぐらいのことでケンカが始まる。

最大の武闘派はシャープ・ホークスだったそうです。なにしろ名前からしてスゴイ。メンバーの中にはマフィアの後裔を自称する安岡力也さんがいましたからね。そりゃぁコワカッタそうです。だからシャープ・ホークスだけ別の楽屋で、本番が始まるまで外から鍵をかけられてたそうです。ライオンと同じ扱いだ。

当時の安岡力也さんはスリムでカッコよかったですよ。ツイストなんか踊る姿。若いヒトに見せたいくらいですが、なにしろ当時の映像がない。“遠い渚”というバラード調のヒット曲も出していて、彼がサビの部分のソロをとってました。これもYouTubeを探しましたがありません。

当時を評してワタシはよく映像氷河期というコトバを使います。とにかく映像がない。ビデオが登場するのは1970年前後。一般化するのは1980年以降です。ワタシは70年代末あたりからビデオの活動をやる仲間に入って、当時の和製ロックバンド、現代舞踏、モダンアートなんかの日本最古のビデオ映像をたくさん撮ってます。このあたりの話はまたいつか。

ビデオがありませんから、当時のテレビ番組はすべて生(なま)です。ゴム無しです。だから終わるのがハヤイ。あれ? 話が別の方向に行ってしまった。元へ。

1967年のある日のことです。小説やテツガク書や映画でムダな時間ばかり過ごしていた当時のワタシは、夜はせめて充実した時間を過ごそうとテレビの前に座った。

あっ皆さん。充実というコトバ。これは水森亜土さん風にジュージチュと読んでくださいね。お願いします。亜土さんを知らない方はそのまま通りすぎてください。

テレビには寺内タケシさんが出ていた。当時は寺内タケシとバニーズです。

司会者が、『曲はレッツゴー運命』と叫んで画面から消え、演奏が始まった。その約30秒後。日本中を震撼させる大事件が起こった。[続く]