(1)

寺内タケシとブルージーンズ
左から2人目は加瀬邦彦さんですね。
このあと脱退してワイルドワンズを作った。




ちょうど10日前の1月11日、私はプロジェクトXというタイトルの記事をアップしました。その中でこんなことを書いてます。


ストーンズ前夜/ロック前史 (クリック)

ローリングストーンズやビートルズが誕生するまでのロックの歴史。日本のシーンを絡ませながら綴る。以下は1月から連載予定の記事のタイトル:

サーフィンUSAと上を向いて歩こう

かまやつひろし兄貴のイタイ過去

エレキの神様、寺内タケシ兄貴はここがエライ


翌日のアクセス解析を見て私はオドロキマシタ。「寺内タケシ」という 検索ワードでこのブログに辿り着いたヒトが5人も。検索ワード30傑のなかの堂々のトップです。

かまやつひろし兄貴はともかく、「サーフィンUSAと上を向いて歩こう」よりも反響は大きかった。


去る者は植木等、じゃなかった、日々にうとしと言うけど、そうか、坂本九ちゃ んの「上を向いて歩こう」より上か。いやぁ、寺内タケシ兄貴はスゴイ 。改めてエラサを再確認しました。

ところで、ネットは便利ですね。「寺内タケシ」の検索ワード でググッてみるとウィキペディアにこんなことが書かれてました。

幼少期
・・・・・・5歳のときよりギターを手にした寺内は、母の三味線を師匠として練習に励んでいたが、母の三味線に負けないような大きな音の 出るギターを作りたい一心で電話機を改造して世界で初めてエレキギタ ーを自作した(と主張するが、特許の申請と言うことは子供心では知る はずがなく公式には認められていない。また、実際には寺内が生まれる 前の1932年にリッケンバッカー社がエレキギターの原型となる楽器『フ ライング・パン』を発売しており、寺内の認識は誤りである。ただし、 子供ながらに独力でエレキギターの概念に辿り着いたという点は評価す るべきであろう)。このとき音を鳴らすのに空襲警報のスピーカーを使 ったために近所の人が防空壕に避難してしまい、父親が憲兵に連行されてしまったという・・・・・・・・


えっ???

エレキギターを作った?

茨城県民が空襲警報とマチガエタ?



うーん。エライ。 [続く]



(2)

杉本エマ



寺内タケシさんは1939年生れといいますから戦時中はまだ6才ぐらい。それがですよ。空の要塞と言われた米軍のB29 がゴーゴーと東京に向かってゆくその下でギターをテケテケ鳴らしていたというからエライ。

弦の音を電気的に増幅するという発想が6才の子の頭に浮かぶものか。

まっ、よーく考えるとはなはだ眉唾な話ではありますが、こういうマコトシヤカナ伝説が生れるところがまたエライ。なにしろ電線の下を通ると魂が吸い取られると言われた時代です。なーんて。そんな古くはないか。

ストーンズが初めてのレコード『テル・ミー』を録音したとき、マネージャーのアンドリュー・オールダムがエレキギターのジャックを持ってウロウロした挙げ句、壁のソケットに突っ込もうとした。それを見ていたブライアン・ジョーンズは、以来、このマネージャーがすっかり嫌いになったなんて話もある。それくらい電気に弱いヒトはヨワイ。寺内兄貴のエラサが身に沁みてわかります。

そのうえに、寺内兄貴はピンクフロイドよりもさらにススンデいた。ピンクフロイドが大型のアンプを使って空襲まがいの轟音をまき散らすようになるのは、兄貴が茨城県民を震え上がらせてから20年以上もあとの1960年代後半です。

ピタゴラスは“我に梃子を与えよ。しからば地球を動かさん”と言ったそうですが、兄貴にピンフロより先に大型のアンプを持たせたかった。そうすれば世界のロックシーンは変わっていたかも、なあんて、ことはないか。

1960年代の後半。ビートルズ、ストーンズ、アニマルズ、ザ・フーと伝説のバンドが輩出するなかで、寺内タケシ兄貴は日本のオーディエンスの記憶に今も残る快挙を成し遂げた。

日本の音楽雑誌が編集した読者アンケートで作る『ギタリスト、トップ10』という企画で、みごと世界第10位に食い込んだんですねぇ。当時のグラビア・アイドル、杉本エマや秋川リサのビキニの食い込みよりもずっと価値があると言われたもんです。
[続く]
 


(3)

ビートルズ日本公演



世界のギタリスト、トップ10というランキング。これは単なる人気投票ではなく、かなりシリアスなものだった。その証拠にビートルズのジョン・レノンもストーンズのキースもこの時のトップ10に入ってませんでした。たしかベーシストのトップ10にポール・マッカートニーが8位か9位で入ってましたね。

ここで話は時間を1年ほど溯ります。時は1966年。外では学生運動の嵐が吹き荒れていて、このワタシが入学した大学も6月まで封鎖。ロープとバリケードの世界です。この間、ワタシは川端康成の名作『雪国』の舞台になった温泉なんかに行ってました。駒子さんも歩いた旅館の階段をスベッテ転んで腰をしたたかに打った。自分の両足が頭の上にくるのがハッキリみえた。それくらいミゴトな階段落ちでした。

この1966年の6月から7月にかけて、日本のみならず世界のポップスの歴史にとっても重要な出来事があった。言わずと知れたビートルズの武道館ライブです。

1966年6月30日から7月2日にかけて5公演。初日は夜のみ、2・3日目は昼と夜の各2回の公演だった。ちなみに私はテレビ桟敷におりました。

司会にE・H・エリック。前座に『悲しき願い』の尾藤イサオ。今やロックの長老となった内田裕也。青春歌手の望月浩。それにジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズが出た。ザ・ドリフターズも前座として2日だけ出ています。カトちゃんがドラムの椅子からコケテ転がり落ちるお約束のギャグをやってますが、当時のテレビではこのシーンは放映されませんでした。

この1966年のビートルズ公演。これはもしかするとブルージーンズが世界に飛び出す切っ掛けになったかもしれなかった。

歴史に“もしも”が許されれば・・・・

ロンドンで寺内タケシとジミヘンが出会うこともありえた。残念なことにそうはならなかった。なぜか。
 

[続く]


(4)

不世出のロック・ギタリスト、ジミ・ヘンドリックス



ビートルズの武道館公演が行なわれていた1966年7月。ひとりの偉大な ロック・ミュージシャンがイギリスによって発見される。

ロック界最高のギタリスト、ジミ・ヘンドリックスだ。

1966年7月、アニマルズのベーシストだったチャス・チャンドラーに見 いだされたジミヘンはその年の9月に大西洋をわたる。チャンドラーに ヘンドリックスの情報をもたらしたのはキース・リチャーズの恋人だったリンダ・キースだった。

同じころ、ビートルズの武道館公演ではブルー・コメッツとブルージーンズが前座をつとめた。このときブルーコメッツの三原綱木のギター がビートルズのメンバーがいた楽屋まで聞こえてきた。おっ、日本にも うまいギタリストがいる。誰だろう?

興味を持ったジョン・レノンとポール・マッカートニーが舞台の袖まで見に来た。これは有名な話です。

三原綱木のギターですらそうだった。寺内タケシ兄貴の演奏を聞いたジ ョンとポールは腰を抜かしたはずだ。ところが・・・・・そうはならな かった。

このときのブルージーンズに寺内タケシはいなかったからです。所属事 務所の渡辺プロダクションを退社する条件としてグループから脱退した 直後のために出演していなかった。

やんぬるかな。

もしも寺内タケシがブルージーンズを脱退していなかったら・・・・・ ・

ジョンとポールに“発見された”寺内タケシがジミヘンとほぼ同じ時期 にロンドンにわたることもありえた。

1966年はロックにとり重要な年だった。ジミヘンが発見された年。ビー トルズがライブをやめた年。クリームが結成された年だ。この年以降、 ロックはアートになる。ニューロックやアートロックという名で呼ばれ るようになる。

もしも“寺内タケシが発見され”て当時のロンドンにわたり、華麗なサーフ奏法にブルージーな味を加えることに成功し・・・・誰かビッグなバンドと共演していれば、いやどこかのバンドのギタリストに迎えられていれば・・・ 日本のロックの歴史も変わっていたはずだ。

[続く]