旦那も私も長男長女で、良く言えば真面目。なんですが、短所として見た時にクソ真面目。

以前、私の尊敬している方が『家事なんて、出来る人が出来る事をすればいいのよ。ふふふ。』なんて仰るとてもおおらかなバツイチ3人子持ちの大黒柱の方で。当時18歳の私は、ありえない。。だからこんな家が埃だらけなんだ。と驚愕したのですが、その母は一家の大黒柱。仕事で毎日とても忙しそうにされている方だったのですが、時間があればもちろん家事もされ、子どもの友人である私の話まで耳を傾けアドバイスし力になって下さる方だったのです。私はその居心地良い家がとても大好きで、その母が大好きでお邪魔させてもらっていました。

掃除しないと、埃が溜まって喘息の引き金になるやもしれません。毎日するのが当たり前。

洗濯物干して当たり前。

洗い物やって当たり前。

出来て当然。

今までそうやって生活してきました。当たり前生活。仕事で忙しくて、体調が悪くて、その当たり前が出来なくなると辛いのです。


私は両親が離婚した時にその当たり前と教えられてきた一切合切の事を全て、おトイレの水を流すようにジャーっと流して空っぽにしました。

全と思っていた両親が離婚し、善と教えられてきた事と真逆の事をしだす母親。この人が狂っているのか、はたまた私が狂っているのか。18年間教えられてきた事 価値観を捨てたのです。


しかし、捨てたはずのそれは私の性格になり染み付いておるのです。『お姉ちゃんなんだから、妹の世話をして当たり前。』なにかにつけて、『やって当然。』と言う元母親。真面目であれと育てられ、いつしかそれは私自身の生活を苦しめる呪縛の言葉になるのです。

家事はできる範囲で!!なんて育児雑誌の見出しで見た事はありますが、そんな事が出来るなら苦労しないのです。全て何も考えずに手放し出来るなら。妊娠中、貧血になりながら休息を取りつつ家事なんて当たり前。虫垂炎になり、痛くてもお腹に手を当てながら掃除機なんてかけたりしないのです。『出来る人がやればいい。』その言葉が頭から消える事はなく、むしろずっと考えていました。初めて聞いた時はなんて無責任なと思ったのですが、ずっと考えているとそれは優しさ故の言葉なのだと最近になってやっと理解出来ました。出来る人が無理のない範囲で手を取りながら助け合う。そんな居心地の良い家だったから、私は大好きだったのです。そんな居心地の良い温かい家にしたいのに、現実は反抗期真っ只中の長女や何かにつけて声をかけると第一声が文句ばかりの次女3女4女と奮闘の日々。いつになったらそんな理想の助け合いができるのやら。でもね、それは強制だといけない。イヤイヤだと意味がない。子どもにはなかなか伝わらないし、旦那とも。全く悲しいくらいに上手くいかない。

そのクソ真面目な性格は自分を苦しめるだけ。だからアルコール依存症になったんだよ。あと男性も産後うつなんてあるらしい。真面目な人は要注意。

旦那は今の今まで壁にぶち当たった事がないから、私よりも頑固で堅物。入院先で今までの価値観を捨てないといけないと言われたのに、未だに捨てきれず苦しんでいる。40年も積み上げてきたのだから無理もない。どうしてあげたらよいのか。私は残念ながら人を導いてあげれるような出来た人間でもない。「家事は出来る人がやったらいいよ。」「真面目はもう捨て。」そんな言葉しかかけれない。この言葉を、果たしてこの人が消化出来る日がくるのか。。


我慢し過ぎた虫垂炎で私は一度死にかけた。手術室に運ばれるまでの検査やなんやらで、あまりにも痛みが酷く。。『ショックおこすかも!!』と叫ばれていたのだけれど。


旦那は離婚や死にかけた経験はもちろんない。自分の枷になると思ったとしても、今まで培ってきたそれを簡単には外せない。苦しい気持ちをまた飲んで誤魔化してしまう。

私達が苦労した道だから、子ども達にはしてほしくない。正解は1つだけでなく、もっと自由に柔軟に、色んな形があっていいんだよ。と伝えたい。幸せには色んな形があるんだよ。って伝えたい。