松尾沙樹 まつおさき
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生涯オルガニストとして生活をした作曲家 セザール・フランク作曲 バイオリンソナタ
フランスの作品になります。同郷のバイオリニスト イザイの結婚祝いとして作曲されました。
彼の死後世界中に彼の作品が知れ渡り、光が当たります。
フランクは現ベルギーのリエージュで生まれました。ドイツ系の家系で、父親は銀行家でありました。母親は、幼い頃からの才能を確信したので、父親は息子がフランツ・リストのように、ピアニスト兼作曲家となって、一家に富と名声をもたらすことを夢を見て教育をしておりました。彼は父の命令でリエージュ王立音楽院に送られます。
父は息子が富と名声を一家にもたらすよう願い、英才教育を行います。1834年にリエージュ王立音楽院を卒業した一年後に一家でパリに移住し、アントニーン・レイハ等、優秀な指導者から教育を受けます。4年後にパリ音楽院に入学し作曲、ピアノ、オルガン等をさらに学びますが、退学し帰郷します。
1834年に国王レオポルド1世も臨席し、演奏のデビュー後
1835年にパリ音楽院の教授から対位法や
ピアノのレッスンを受け、勉学に励みます。
1837年に父親がセザールフランクの弟と2人共演の演奏会やリサイタルを企画した。主に当時の流行音楽を演奏し、好評を得ておりました。
しかし流行を意識し、商業的な内容は次第にパリの音楽雑誌や批評家の反感を買うようになっていきます。ピアニストの腕前は認められるも、作曲家としての腕前はこの頃はまだ未熟なものでありました。
(未熟とはいえ、ブラームス同様、譜読みをする事も普通の人は時間がかかる大曲を数多く短期間で作曲し、優秀なレベルでの演奏を自らこなせる能力は想像を越えているのですが。。)
状況は、父親と国王にも影響を及ぼす音楽誌の首席評論家の間で確執が生じ、それが原因でさらに悪化し、活動が難しくなっていきます。父親の振る舞いも影響して教師として生活をすることになります。
父親は常に全てにおいて口を出し、希望通りに仕切り、事を動かさなければ気がすまなかった事や、結婚にも反対をした彼の父の振る舞いにより、
フランクが当時楽になることはありませんでした。
自分の将来性に不安を抱くようになり、父親と一切の縁を切った後、求婚し続けたフェリシテと婚約し、ノートル ダム ド ロレット教会のオルガニストの補佐となった事や、ダンセル牧師の助けや教会の繁栄とともに徐々に安心して作曲活動が出来るようになり、希望が持てた事でその後数々の大曲が生まれていきます
1888年のギリシャ神話を題材とした交響詩『プシシェ』を発表すると家族からは商業的な音楽に専念するよう希望されたり、度々批評家や、聴衆から非難されつつも
1886年の『ヴァイオリンソナタ』は、当時も成功した作品であり
彼の人生の中でも良い時期の作品だったようです
ちなみに、唯一の交響曲となる『交響曲 ニ短調』が出版された際には音楽院のオーケストラは非協力的で聴衆、批評家はは冷淡で、仲間の作曲家の多くから彼は非難されます。
彼は人生の中で度々非難や中傷にさらされます。
フランクのソナタは彼の作品の中でも最も有名な作品ですが、苦難の後に得た明るい希望や安心感も分けて頂けるような、そんな力がある作品にも感じられます。皆様はどのように感じられるでしょうか?
フランクのソナタが生まれた1886年は、ゴッホが弟が住んでいるパリに移り住みます
19世紀後半になるとパリではジャポニズムが起こり、ゴッホが浮世絵から影響を受けたようにパリの芸術家達が日本文化の
刺激を受けていきます。
ソナタが誕生する3年前にココ・シャネルが誕生します
その後、パリでは上流階級の貴族達とファッション界と芸術家や画家達が密接に関わり、日本文化が影響を与えていきます。
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