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ためしに始めて見たのです♪

佐久間象山

佐久間象山

さくましょうざん

出身
松代藩
生年月日
1811年3月22日
没年月日
1864年8月12日
年齢
満53歳没

さくまぞうざんとも読む。思想家および教育者として、勝海舟や吉田松陰に大きな影響を与えた。 若い頃は朱子学を学んでいたが、藩主・真田幸貫の命令により洋学研究の担当となる。佐久間象山は西洋兵学を入り口に、西洋学問の第一人者となり日本初の指示電信機による電信を行ったほか、ガラスの製造や地震予知器の開発まで成功させる。 ペリー来航時は攘夷論を主張していたが、のちに和親開国論者に立場をかえる。 その後、幕府の命令により上洛。当時上洛していた徳川慶喜に公武合体と開国の必要性を説くことになるのだが、これにより京都に潜伏していた尊王攘夷派に目をつけられることとなる。 1864年8月、幕末四大人斬りのひとり河上彦斎らの手により暗殺される。

 

 

佐久間 象山は、江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家。松代三山の一人。通称は修理、諱は国忠、のちに啓、字は子迪、後に子明と称した。位階は贈正四位。象山神社の祭神。象山神社の隣が生家で、長野県の史跡に指定されている。

 

 

 

佐久間象山は松代藩の下級武士として生まれました。佐久間象山は早くから開国論者であり、教え子には、勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰等がいました。

 

 

↑引用文。

 

真田宝物館見学に昨年行きましたが、時間がなくて象山神社や象山記念館には行けなかった。

松代大本営の見学もしたかったけど・・・

皆神山にも登りたかったし。

 

おととしの「真田丸」をみて 真田昌幸の後ろに「白山大権現」の掛け軸が気になって仕方がなかった。

 

真田家はきっと あの土地を守るために 生かされたのでは?

 

長野県上田市の 「生島足島神社」は ご本殿が大地、自然そのもの。

日本のへそにある神社。

昨年、たまたま 足を運びましたが 必然だったのかもしれない。

 

 

式内大社 生島足島神社公式ホームページ

 

 

生島足島神社 - Wikipedia

 

 

 

 

 

 

 

国旗についての物語

「唐人お吉」が偏見に基づく誤解なら是正すべき


ハリスが掲げた31星の「星条旗」

下田時代、ハリスはピアース大統領からの親書提出のため江戸出府を望むのですが、幕閣では水戸藩の徳川斉昭ら攘夷論者が反対し、江戸出府はなかなか果たせませんでした。幕府は何とかしてハリスの江戸出府を引き止めさせるため、ハリスと書記官兼通訳(オランダ人)ヘンリー・ヒュースケンの身の回りの世話をする侍女が必要であろうと女性の斡旋を企図し、他方、ヒュースケンは病気がちなハリスの世話をしてくれる看護人を所望したようです。当時の日本では看護婦(師)ということが分からず、奉行所が眼を付けのが芸者・お吉(本名・齋藤きち)でした。ところが、ハリスは敬虔な聖公会信徒で役人の企みを見抜いて激怒し、お吉を即刻解雇したのでした。

先年、下田で講演を依頼された際、郷土史家たちから聞いた話ですが、お吉もなかなかできる人物だったようで、二人のために牛肉や牛乳の入手にも努めました。特に、ハリスが体調を崩し、牛乳を欲しがったのですが、当時はこれが容易に手に入らずに困っていました。それをお吉がようやく近郊の農家から手に入れ、実際には「竹筒に入れて運んで飲ませたという記録が残ってい」るそうです(ウィキペディア)。「この記録によると、その価格は8合8分で1両3分88文と非常に高価で、当時の米俵3俵分に相当した」(同)そうで、これが日本で牛乳を公式に売買して飲用した最初ということで、玉泉寺には「牛乳の碑」が建てられています。


下田の玉禅寺にある碑

そういう敬虔な人物に対し、ハリスやヒュースケンの名が出ると昭和初期以降「唐人お吉」との事実に反する風説が流布し、信仰深いハリスのイメージが傷つられたのは遺憾です。特に1928年、十一谷義三郎(1897~1937)の小説『唐人お吉』が大ヒットし、国民文芸賞を受賞、これがさらに無声映画になって誤解が広まったのは残念なことです。時代的背景、外国人に対する偏見、男女間についての俗的想像等のなせる結果でしょう。

そうした偏見の続く中で、晩年のお吉は哀れでした。アルコール依存症となって下田での小料理屋も廃業し、数年間、物乞いをした後、1890(明治23)年3月27日、稲生沢川に投身自殺しました。享年48。「今では下田観光のキーパーソンのようになっているお吉ですが、当時の人たちはお吉が亡くなってからも冷たく、実家の菩提寺は埋葬を断ったほどです。外国人に対して特段の偏見があった明治の話ですから無理もありません。これを哀れに思った同じ下田の宝福寺の住職が境内の一角に葬ってくれたのです」と郷土史家たちは語ってくれました。

ハリス自身は日本に好意的で「喜望峰以東の最も優れた民族」と述べていましたが、混浴の習慣は耐えきれないものだったようで、「このような下品な習慣は理解に苦しむ」と述べていたほどです。


斎藤きち(19歳当時)