佐伯祐三展をみる
やっと「郵便配達夫」に会うことができた。
昨年2月にオープンした大阪中之島美術館の収蔵品の目玉がモディリアーニの「横たわる裸婦」とこの佐伯祐三の「郵便配達夫」であることは間違いないだろう。大阪だからとはいえ当美術館のオープニング展に行けなかった(僅か1か月半しかやってなかった)のが悔やまれてならなかった。モディリアーニはその後の「モディリアーニ展」で確り鑑賞できたのだが。
さて、今回東京ステーションギャラリー(東京駅)で開催している佐伯祐三展は、まことに見ごたえ十分な展覧会である。結核を病みパリで客死するまで、僅か4年半の間に数多くの作品を描いた佐伯だが、本展では143点(入替含む)もの作品が展示されている。
その中でメインビジュアルとして選ばれたのは、もちろんこの「郵便配達夫」だ。最晩年(30歳)の絶筆とも呼べる本作は、死の床に伏していた事など微塵も感じさせない、力強さに溢れている。造形は極めてシャープで、角張った四肢や制服、背景を含めた傾斜した構図が緊張感に満ちている。半面、表情は穏やかそうだが、眼は正面を見据えてみる者に何かを訴えているようだ。佐伯自身が死を覚悟した悲痛なまでの哀しみなのかもしれない。
この絵には有名なエピソードがある。自宅をたまたま訪ねてきた郵便配達夫に、佐伯は創作意欲を掻き立てられ、モデルになってもらうよう依頼して後日描いたという。佐伯の妻米子夫人も自宅に帰る途中に郵便配達夫と出会い、佐伯にモデルにぴったりの人がいた、と伝えたらしい。この郵便配達夫は後にも先にもこの時にしか姿を見せなかったことから、佐伯の妻はあの人は神様(死期の迫る佐伯に神様が遣わしたモデル?)だったのではないか、と語っている。
佐伯はゴッホに私淑していた。本作はゴッホが南仏のアルルで描いた、「郵便配達人ジョセフ・ルーラン」に似ていて、佐伯のゴッホへのオマージュだとも言われている。
佐伯祐三の画風は短い生涯の中で目まぐるしく変化しているのが面白い。佐伯は東京美術学校(現・東京藝術大学)在学中から才能を認められていたようだ。美術学校前後の自画像がいくつか出展されているが確かに「上手い」。特にデッサンが素晴らしく、デッサンの自画像は少ない筆数なのに素晴らしく上手く描いている。当時は美術学校でも印象派が人気で、彼の自画像も印象派の影響を受けている。
彼は卒業した翌1924年にパリに渡航するのだが、その年モーリス・ヴラマンクを訪ねる。佐伯は持参した自作『裸婦』を見せたところ、ヴラマンクに「このアカデミックめ!」と一蹴され、「物質感が全くダメ」「砂糖と塩を描き分けろ」などと一時間も説教され続けたそうだ。その「裸婦」はルノアール風だったともいわれる。これを契機に佐伯のオリジナリティの模索が始まり画風が変化してゆく。ヴラマンクに会った直後に描かれたのが「パレットをもつ自画像」だ。顔が絵の具でかき消されてしまっていて画家の表情を読み取ることができない。彼が意図的に顔をつぶしてしまったのだ。以前の自分との決別、再出発の決意表明をこんなかたちで描いたのも凄い事である。ヴラマンクとの出会いなかりせば、その後の佐伯はなかったかもしれない。天才の事は天才にしかわからないのだ。
佐伯祐三は早書きとして知られる。これは美術学校時代からそうだったが、直観力に優れた天才だったからに他ならないだろう。例えば、今回の出展品「蟹」は、パリから一度帰国した際に描かれたもので6号の油絵を僅か30分で描き上げたという。信じられないことである。一方、既に美術学校在学中、渡仏前から結核を患っていたといわれていて、彼は命が短いことを悟り、自らに絵画制作のスピードを課していたようにも思える。第二次パリ時代は5か月に107枚も描いたと友人に手紙を書いていて、午前中に1枚、午後に2枚を描いたほどだったという。当時パリには100人もの日本人画家がいたというが、彼らとの交流もほとんどせず、ひたすら絵を描く。描くことで生きていたのだ。
彼の作品の裏に走り書きがあって、「死-病-仕事-愛-生活」「今に見ていろ。水垢離してでもやり抜く」など苦悩と魂の叫びがみてとれる。
佐伯祐三の特徴は「物質感」「正面性」「書き文字」にあるといわれる。第一次パリ時代(1924~1925)には「壁」(正面性)にフォーカスが当たる。最初は遠近法でパリの街並みを描くユトリロ風の絵を描いていたようだが、次第に建物自体やその壁に関心を持つようになり、今回出展されたコルドヌリ(靴屋)など壁の正面性を強調した作品を描き続ける。
とうとう「壁」という名の作品まで描くに至る。彼の作品はすぐにサロン・ドートンヌに入選、展覧会当日に買い手がつくなど、デビュー直後から高く評価された画家は珍しいという。
佐伯は壁と正面から対峙し、厚塗りの絵の具で描き切る。その物質感・存在感は圧倒的であるが、わずかに開かれた扉や窓から佐伯の心中が見えるようだ。
1925年に佐伯の兄がパリに来て、病状が悪化した佐伯を見るに見かね無理やり日本に連れ帰る。その時佐伯は「日本に留学します。すぐにパリに戻ってきます」と負け惜しんだという。帰国してからは静養する間もなく、日本の風景と向き合い、さらなる高みに挑む。それが「線」の探求であった。彼は街中の電柱や港に停泊している船のマストを好んで描いた。しかし佐伯の心は絶えずパリにあって、病状も回復しないまま1927年夏ににシベリア鉄道で再びパリへと向かうのである。1928年に自殺未遂を起こし精神病院に入るまで僅か7か月間であったが、佐伯の創作は最後の輝きを放つ。それが日本帰国時に研究した「線」のパリである。傑作といわれる「ガス灯と広告」。第一次パリ時代のように「壁」を絵描いてはいるのだが、ガス灯や人物の「線」が壁と対比を成している。なによりポスターの踊るような文字が、まるでデザインのように存在感を主張する。おそらくこれも早書きなのだろうが、内面から湧き出るような感興がほとばしるように鮮烈に映る。まるで天才モーツァルトの楽譜を見ているようだ。
「レストラン(オテル・デュ・マルシェ)」も素晴らしい。色彩感豊かな様々な造形物か溢れかえり、踊る文字に加えて佐伯のサインも作品の一部のようだ。
死を目の前にした佐伯のどこからこのエネルギーが出てくるのか不思議だ。
最後に気に入っている絵を一つ紹介したい。
それは晩年の傑作「煉瓦焼」。彼は荻須高徳など若手を連れて、パリから東へ40キロほどの農村へ最後の写生に出かけた。そこはパリの華やぎや喧噪もない静かな集落で最後の試みをする。彼の感興溢れる感覚的な才気はもはや消え失せ、対象が力強い線と明快な色彩で堅固に表現されている。その作品群のなかでも私の目に焼き付いたのが「煉瓦焼」である。この骨太の力強さはどこから出てくるのだろう。そして煉瓦焼の窯の赤、草の緑、空の青の色彩の対比。存在感に圧倒される。
佐伯の真価を初めて見出したのは、大阪中之島美術館の発案者でもある山本發次郎である。山本はこの「煉瓦焼」の絵に魅了され、以来佐伯作品を収集することとなる。
山本の佐伯コレクションについては次をお読みください。
繰り返しになるが、本展の内容は素晴らしいものだ。そして、東京ステーションギャラリーの煉瓦の壁面と佐伯の絵のマッチが、まるで当時のパリの街並みを想起させる、と評判も良いようだ。それは否定しないが、私が思うにステーションギャラリーの展示スペースは余りに狭い。そこへ大勢の客が押し寄せ混雑しているのが残念だ。
本展はこの後4月15日から大阪中之島美術館に巡回するので、中之島美術館の新しく広々とした空間で佐伯の作品を観てみたいものだ。中之島美術館はいわば佐伯のホームグラウンドなのだから。
本展の出展143点のうち、中之島美術館収蔵が57点もある。中之島美術館なかりせば本展は成り立たないといってもよい。
投稿「その6」に書いたように、佐伯祐三の絵に魅了された山本發次郎は生涯150点もの佐伯の作品を集めたといわれる。しかし大戦の空襲によって100点を失う。残った50点余りが大阪中之島美術館に収蔵されているが、中之島美術館こそ佐伯を愛してやまなかった山本發次郎の夢が100年の時空を経て、実現したものなのである。
山本と中之島美術館の繋がりについては、以前の私の投稿を見ていただけたら嬉しい。

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