多くの人の中に、他人とのコミュニケーションにおいて、「人に嫌われてはいけない」っていうものがあるのを感じます。




ま、しょうがないんですよ。

なんてったって、小さい頃からずっと、「友達とは仲良く。」「友達100人出来るかな。」「人の嫌がることはやめよう。」っていうようなことを言われ、教育されてますから。

もちろんそれは悪いことではないし、人生には必要な教えであるとも思いますが、それが過剰に行き過ぎて、自分を守り、楽しい人生を送るための方法でなく、逆に、自分を騙し、自分を偽り、不幸にする呪縛になってしまっているところもあると思います。

特に、幼少期、思春期なんかの多感な子供の時代に、「学校」や、場合により「家庭」という閉鎖的な場所にいるわけで、そこでイヤな経験をしてしまうと、その痛みは強く心の中に残ります。

私が子供のころは45人くらいのクラスでしたが、今は20人とか30人くらいがメインなんでしょうかね。その中の同性が半分だとすると、1人に嫌われただけでも、結構な針のむしろです。

さらに、その嫌われた1人が力を持っていたりすると、「あの子、むかつくから無視しようよ。」なんていうことを煽動し、学校で暮らす時間が苦痛でしかなくなったりもしますから。

それね、よくわかりますよ。

私も中学の頃に、バスケ部で同級生だったイケイケな子に歯向かい(私的には歯向かった気はないものの、相手はそう受け取った)、練習中でも、「あいつにはパスを回すな。」的なことをされたことがありますからね。

実際に敵意を向けてくる人間は数人だとしても、「前から仲良かった友達までそっけなくなっている。つらい・・・。」っていう気持ちになり、ブルー極まりない状態に陥ります。

そうなったらね、誰かにおもねってでも、自分に嘘をついててでも、「人に好かれるようにしよう。」っていう結論になるのは当然と言ったら当然。

それは、しょうがないこと。

しょうがないことですが、今の私からすれば、そんなバスケ部はやめてしまえばよい、と思います。
もっと言えば、そんな学校に行く必要もないわけで。

だってね、誰にも彼にも好かれて、誰一人にも嫌われずに生きていくなんてのは無理なわけですよ。

些細な事で誰かを怒らせてしまうこともあるだろうし、些細な行き違いで大きな溝が生まれることもあるだろうし、そもそも、私とは違う価値観を持って生きている人ばかりの世界で、万人に好かれることのほうが難しい。

「嫌われてはいけない」っていう呪縛の元にはね、「選択肢がない」という不自由さがあるんですよね。物理的にも心理的にも。

「このバスケ部にしか居場所がない」「この学校にしか居場所がない」ってことを、子供の頃の私は強く信じていました。

でも、全然、そんなことはない。逃げればいいんです。「逃げる」という言い方が嫌ならば、捨てればいい。

居場所は他にいっぱいある。

自分を受け入れてくれる場所はやまほどある。

私を嫌わずにいてくれる人は他の場所にいっぱいいるし、私を受け入れてくれる人も大勢いる。

嫌われてもいいんです。

もちろん、わざわざ嫌われる方法を取る必要はないけれど、「100人いたら1人には嫌われる、1000人いたら10人には嫌われるだろう」ってことをデフォルトとして考えて、そういう人には上手いことやれるのなら上手いことやって適当にあしらえば良いだけで、「嫌われている人にも好かれなければならない。そのためには自分を殺して相手におもねらねばならない。」なんてことを思う必要は1ミリもないわけで。

怖いのもわかります。つらいのもわかります。

でも、嫌われたっていいんですよ。

「嫌われても良い・嫌われてもしょうがない」ってことを前提として持ち、その上で、どうやって他人とよりよい関係を築いていくか、が大事だと思うんです。

自分にとって大事なのは「嫌われてしまった人」のことを考えることではなくて、「自分の幸せ」を考えることです。


「人に嫌われてはいけない」「万人と仲良くしなければいけない」っていう自分の心の中にある呪縛は、「自分の幸せ」とは無関係ですから。