否応なく、「死」を思わざるを得ない状況の中だとして

ただ、「死を想う」って、本来は、いつもどこでも、思っておくべきものなんじゃないかと思うのです。

原発が怖い、地震が怖い、数年後のガンが怖い、って言ったって、明日もちをのどにつまらせて死んでしまう可能性だってあるわけで。


それが1年後か
1ヶ月後か
明日か。


そう考えていくと、何かは変わる。

もちろんこれは、その人の選択の問題、価値観の問題です。良い悪いではなく。


明日かもしれないし
10年後かもしれない。

それは誰にもわからないし、人生がどう転ぼうが責任を取れるのは自分しかいない。

ならば、やりたいことをやらないと、って思いました。
今、遺書を残すとして。
後悔することはありません。

「あの時、ああしていれば」とか、「あれをやっておけば。これをやっておけば。」とかってものはない。まだ、やりたいこと、したいことはありますし、深田恭子と付き合いたい、とかってのもありますが、自分の過去を振り返ってみて、もんどり打つ程後悔することはない、、、気がします。

ま、実際はその時にならないと全くわからないんですけども。

少なくても「死」を強く想像した時に、「あれやっとけばよかった」っていう後悔が出るものはない。

何も遺書に書くことのないような人生を過ごしたいと思います。


遺書に書くとしたら、「みんな、サンキューベラマッチ!」だけにして、「あれがこうで、それはこう、お前はああで、お前はこう。」なんてことは、遺書に書かずに、今、メールか電話をした方がいい。

いや、遺書に「ありがとう。」って言葉すら書く必要のない日々を送りたいものです。

そんな日々を送っていれば、私の行動が、誰かにとっての遺書になる。遺書は心の中に。

そして、その遺書に書きたいこと、書くべき事を、日々、体現する。

そうだな。

そうしたい。
過去に後悔はないけれど、生あるうちはそうしたい。



そう思うこのごろ。