訃報を受けたのは7日の20時半頃だったかな…
着の身着のままの姿で、気付けば財布とスマホだけを持ちタクシーに乗ってた…

私は子供の頃、いらない子…被虐待児でした…
小学1年の冬迄は、まぁ普通の家庭だったんです。
両親が居て同居する祖母が居て…
普通に幼稚園を卒園して、小学校に入学して…
でもその冬に祖母が亡くなってから、家庭が急に変わった…
両親にどんな理由が有ったのか?分からない。
今でも分かろうとは思わないけど…

急に食事やら服の洗濯やら、そんな事はまともにしてもらえなくなり、父親からは常に蹴る殴る…
罵声と怒号、殴られる音…
2階から突き落とされた時に折れたと思える肋骨は、今もレントゲン撮ると変にズレて繋がったままだ。
母親にも助けてもらえず…
風呂も湯の張り方が分からない、だから風呂なんか入れなくて身体は臭う…
子供はストレートで残酷だから、即イジメの対象に成った…

平日は給食が食べれるけど、朝や夜や土日は最悪…
飢えは寒さ暑さとかより辛くて、腹一杯になれなくても何か食べたくて、春休みに自宅なのに食パン1枚盗み食いして、バレて歯が折れる迄顔面を殴られる、それでも暴力の対象にすがる…

何でそうなのか?
何でこう成ったのか?
意味も分からず泣くしか無く、しかし泣くと泣き止むまで殴られる…

地獄というものが在るなら、きっと今が地獄なのだろうと思ってた…

小学3年の頃、家から少しだけ離れた神社に家出した。
神輿をしまう蔵の床下で一晩過ごした朝、神主さんの娘の巫女さんに発見された。

後から知ったのだが、私の事は知った話だったそうだ…

一応の理由を聞かれたが答えた記憶は無い、そんな私に食事を与え風呂に入れ、着ていた服を洗濯して繕ってくれた巫女のお姉さん…

優しく背中を抱きしめてくれて、泣くなら笑おう…笑えばきっと明日良い事があるから…
そう掛けて貰った言葉を今でも覚えてる。

その時から神主さんと、そこから歩いて行ける範囲にあった教会とお寺の牧師さんや住職さんが話し合い、協力する形で私を保護してくれた。

一度だけ連れ戻されそうになり激しい暴行を受けたが、その時から親の顔も見てないし、実家がどう成ったのかも知りはしない。

教会に住ませてもらいながら、すっかり甘える事を忘れた私は、小3で働きたいと言い出し、小4の時に住職の知り合いの新聞配達所で新聞配達をさせて貰って、少しずつ世界が広がり学区違いの小学校に転校もしてイジメの対象にもならなくなってきた。

思えば学校や役所や警察やら…対応や説得には随分と苦労を掛けたのだと思う。

私にとっては、すっかり神主さん御一家、住職さん御一家、神父さん御一家が、親であり家族にと思っていった。

そんなキッカケを与えてくれた巫女さんだったお姉さんは、とうに他界している。

中学を出た時に、地元を離れたがっていた事を察して、笑って送り出してくれて、行った先ごとに就職先やアパートの保証人など、私が声にする前に気に掛けてくれて助けてくれた。

電話やメールでの連絡はしていたのだが、3年前に今の身体になってしまってからは、すっかり自分の事ばかりになってしまい、半年程に一度食べてるか?生活は出来てるか?と心配して貰うメール以外は、すっかり不義理に成ってしまった…

思えばあの時気付くべきだった…
肩の手術を終えて麻酔から覚めた時、心配そうに顔を見てる神主さんと神父さん御夫婦と、住職さんの奥さん…
いつも住職さんと一緒に居て、お寺も息子さんが継いでくれたのに、何故1人なのか?と…

まさか5年も前から病に臥せって居たなんて…
私には心配かけるから連絡するなと言い続けていたなんて…
息子さんに、最後の言葉までお前の心配で、ちょっと嫉妬したよ…
その言葉を聞いて涙が止まらなかった…
不義理な親不孝な子でした…
本当に…本当にごめんなさい…